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近代哲学の人間像 [放送大学]

さて、試験が終わったので、今学期の勉強のまとめ。

哲学関係の授業はいくつか履修して来ましたが、この科目はルネッサンス以降の西洋哲学についてざっと概観したもの。

ルネッサンス時代の新プラトン主義から始まって、デカルト、パスカル、ライプニッツ、ロック、ヒューム、スミス、カント、ヘーゲル、マルクス、ウェーバーと駆け足です。

勉強も駆け足だったため(爆)、内容の理解は中途半端な気もしますが、普段考えるようなことより掘り下げて考えるということは、良い刺激になります。

私はもともとは理系だったのですが、こうして歴史を追っていろいろな考えがある中で実証主義の科学というものが確立してきたのはおもしろいところです。科学と科学でないもの、という境界は、実は非常に曖昧なもののように感じます。だからこそ、発展の可能性があるということだと思います。

デカルトの還元主義が幅をきかせ、アリストテレスの4つの原因の中で、時間的に先んじたものが後のものを決めるという作用因が重視され、時間的に後のものが先のものを決めるという目的因という考え方は、実証主義の科学では徹底的に否定されてきました。もちろん、それが真実かは分からないのだし、現に対抗する議論もあったわけです。

科学と言われるものの中でも、個々の要素が集まるとそれらの和以上の性質を持つというシステム論や、Gibbsの自由エネルギーが小さくなる方に進むのだという熱力学はそうした議論があってこその発想のようにも思います。

物理学者でもあり、哲学者でもあったマッハは、認識論でも刺激的なことを言っていて、人間が認識できる以上の絶対的な時間も空間もなく、それらは「感覚」であり、それらの関数的関係が科学の目標だと割り切っています。そこまでの「認識」ということへの突き詰めた考察が、観測する系によって時間や質量が異なるという相対性理論の発想につながっていったのだと思います。

あとは、西洋哲学となると、どうしても宗教と絡み合ってしまうところ。
デカルトもすべてを疑っていった結果、考える自分は神への観念を持っているので実体だ、というわかったようなわからないようなところに行き着いてしまう訳です。

イザベラ・バードの日本紀行を読むと、宗教を受け入れずに文明の果実だけを受け入れようとする日本人に憤慨ともいうべき感情をバードは書いているわけですが、西洋から見れば、宗教抜きで文明・技術・思想を導入するなんてきっと考えられない発想だったのかな、と思います。


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