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辺境からみる古代ローマ帝国 [放送大学]

ということで、この週末は今学期最後の面接授業。

ローマ帝国というのは知れば知るほどすごいものだと思いますが、今回はその辺境を取りあげて、何が起こったかをみようというもの。その辺境とは具体的に今でいうイギリスとリビア。

初めての海外旅行はイギリス(ロンドン)で、中世の立派な建築物がたくさん残っていてびっくりしました。
しかし、その後にローマに行くと、古代の遺跡がごろごろしていて、これはさらにレベルが違うとびっくりしたことを覚えています。

実は、イギリス、というかロンドンがあるグレート・ブリテン島の南部もローマ帝国に支配されていましたが、その期間は他の地中海沿岸地域より短く、遺跡もあまり残っていません。今考えると、それが当時の印象を生んだのだと思います。

グレート・ブリテン島はガリア(北部フランスのあたり)のさらに先にあるので、ローマ帝国にとっては遠い。それでも、征服を試みます。ところが、意外にこの島に住む先住民は戦闘力が高く、苦労します。

クラウディウス帝の時代にようやく征服したものの、その後イケニ族のブーディカという現地王家の女性に反乱を起こされて、一時はロンドンを見捨てざるを得ないほど手こずることになります。
このブーディカという女性が戦車に乗っている像はロンドンにもあるそうで、その後の女王の下で大英帝国が繁栄するというストーリーの下敷きにもなっているそうです。

(西)ローマ帝国が滅んだ後に侵入したゲルマン人(アングロ・サクソン)はローマが支配した地域に入り、これがイングランドになります。グレート・ブリテン島の先住民はケルト系ですが、彼らはこれらのゲルマン人と混じらずに、ウェールズやスコットランドに残ることになります。これが今のグレート・ブリテン島の民族構成となります。

一方、ガリアではローマ帝国の支配期間が長かったため、先住民のケルト系は十分に文明化(ローマ化)されており、ここに(西)ローマ帝国崩壊後にゲルマン系のフランク族が流入した結果、先住民を無視できずに混じり合うことになり、フランス語をはじめとする文化の中にローマ帝国の痕跡を残すことになったという解釈です。



さて、もう一つの辺境はリビア。
リビアは隣のカルタゴが滅ぼされ、レプティス・マグナ、サブラタ、オエア(今のトリポリ)はローマ帝国の都市として発展します。灌漑農業が内陸まで発展し、ローマに穀物やオリーブ油を供給して経済的にも栄え、リビア出身の皇帝も現れるに到ります。レプティス・マグナは現在でも大規模なローマ帝国の遺跡が残っているようで、是非行ってみたいところです。

しかし、(西)ローマ帝国が滅びた後は内陸部の農業も放棄されてしまい、その後二度と回復することはありませんでした。帝国の存在が巨大な交易市場を生んで生産を刺激したことが重要だったのだと思われます。



ローマ帝国の後に中世ヨーロッパが停滞・暗黒かどうかというのは議論があるようですが、少なくとも文化や文明が一方向に発展するのではなく、後戻りしてしまうこともあるのだというのは現代社会に生きる我々にも教訓を与えているように思います。
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