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富岡製糸場 [旅・出張]

新車の慣しもかねて、富岡製糸場に行ってきました。
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日本の製糸業は明治維新後に富岡製糸場を嚆矢に発展し、維新間もない1880年代にアメリカ市場において5割の占有率に達し、1920年代には7割に達したと言います。

また、国内旅行をしていると、古い民家と呼ばれるものは多くが養蚕を前提とした構造となっていて、ある意味日本の景観を変えてしまった産業とも言えます。白川郷もそうだと言いますし、庄内平野で見た兜造りもそうですね。

維新直後というのはなかなか想像しにくい世界ですが、電灯もなかったため、大きく窓をとり、自然採光で操業していたのだそうです。そのため、繰糸場は東西に長く南向きとし、季節によって操業時間が違ったとのこと。
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ガラスはさすがに輸入したものの、レンガは技術指導して瓦職人に作らせたと言います。当時のお雇い外国人って、製糸に限らず、建築、さらにはレンガまでの技術を持っていたというのも驚きです。しかも、関係者がほとんど20~30代なんですよね。

さて、富岡製糸場、工場の中は見学できるものの、機械が動いている様子は見られません。また、工場以外の建物も中には入れないのが残念なところです。
機械についてみれば、同じ機械がたくさん並んでいる、という感じです。映像や図での説明がありますが、蚕の糸はもともと長いため、繭から最初の糸の端をみつけるあたりは複雑ですが、その後は基本的には糸を撚っていくだけです。
糸がなくなったときに別の糸を加えるあたりは職人芸があったようですが、機械の構造は比較的単純に感じました。
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蚕糸のような長い糸を撚っていく製糸業に対して、棉花のような短繊維を紡いで撚っていくのが紡績業。そのため、紡績業では工程がより多く、先月マンチェスターで見たときも多くの種類の機械が並んでいました。

製糸業と紡績業の比較は放送大学の日本経済史の授業でも出てきましたが、製糸業については原料である養蚕段階から日本が競争力を持ち、製糸機械も簡素化して国産化出来たために資本調達も間接金融で済みました。

一方、紡績業は棉花生産について日本は競争力がなかったので輸入し、機械も日本の技術では品質が高まらずに海外からそのまま輸入する必要があったために、直接金融が主体だったとのこと。

ただし、労働者については紡績業より製糸業のほうがさらに熟練を要したために、人手不足が課題となりました。

このあたり、産業論としても面白そうです。



富岡製糸場、製糸業に感心があれば面白いかも知れないですけど、見学時間もそれほどかからないし、世界遺産ではあるものの、観光地としてはまだまだという感じですね。周囲にもぱらぱらと店がある程度で時間がそうつぶせるわけでもなく、このためだけに遠くから行く人は多くないかも知れません。
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