淡路島旅行 [旅・出張]
日本の島シリーズ、今度は淡路島に行ってきました。
本州、四国とも橋でつながっているので離島感こそ薄いものの、東京からだと行きにくいですよね。
淡路島東部、中央あたりの洲本からレンタカーを借りて出発。
まずは洲本城、山上でとても景色が良く、洲本の町が一望できます。
また、砂浜が拡がり、大阪にも神戸にも近いのに海の透明度が高いことも印象的です。
城址には偽物の天守閣が作られていますが、中に入ることは出来ません。
洲本を出て、反時計回りに一周することにしました。
途中で東山寺(とうさんじ)に立ち寄り。
本当にこの道で大丈夫かと思うような狭い山道を進むとあります。
淡路島最古の木造建築とのこと。
山奥の寺なのに阿形と吽形がいます。ただ、仏像は見られなかった。
夢舞台で昼食を摂ってから、道の駅淡路、淡路島北端です。
明石海峡大橋が大きく見えます。
淡路島は明石海峡大橋で本州と、大鳴門橋で四国とつながっていますが、大鳴門橋が先に出来たのですね。
明石海峡大橋は世界最長の吊り橋で、3990mという計画が、工事の途中で起こった阪神淡路大震災のせいで3911mになってしまいました。
鉄道を通すことは想定されていないそうですが、水道管が通っていて、淡路島の水不足を解消したのだそうです。
北端を回って今度は西岸を南下。
淡路島は全体的に高い山がなく穏やかな地形で、海岸線もなだらかなため、海沿いの道のドライブが続きます。
アップダウンもそれほどないせいか、自転車も見かけます。
ただ、自転車はなぜか対向ばかり、時計回りが主流なのでしょうか。
北淡震災記念公園では、1995年の阪神淡路大震災でずれた野島断層がそのまま残っています。
家のすぐ横をこの断層が走ったものの倒壊しなかった「メモリアルハウス」も見学できます。
震災の体験コーナーもあってみていたが、揺れ方が鋭い。
建物の倒壊の写真もすごかった。
うってかわって近くにある淡路市北淡歴史民俗資料館は、北淡震災記念公園をよそに空いていました。
見学者はあとひとりのみ。
歴史を感じる?建物。
しかし、展示物は興味深く、土器で出来たイイダコ漁のたこつぼがあります。弥生時代でしょうか?
今でも漁をするとこれが網に掛かるらしい。
そのほか、塩作りのための土器が見つかるのも特徴的です。
塩はここで消費する分だけではなく、他の地域にも供給されていたようです。
阪神・淡路大震災で壊れたという布団だんじりの部分展示もありました。
その他、漁師の防寒着「どんざ」、魚を買い付けた「生船(なまふね)」、不遇の国学者鈴木重胤の展示もありました。
残りは神社をはしご。
伊弉諾神社は淡路国一宮で、相当に立派な神社。
でも、憲法改正ののぼりがうっとうしい。政治的主張をここでしなくとも。
おのころ神社は、鳥居だけ大きいものの、拝殿も小さなものでした。
さらに国分寺は跡形はあまりなく、山の中にある成相寺(なりあいじ)も中身は公開されていませんでした。
このあたりで時間がなくなり、一周を諦めて高速に乗って洲本まで戻りました。
さて、一夜明けて最後は洲本の探検。
まずは洲本市立淡路文化史料館。
狸が迎えてくれます。淡路島には狸にまつわる昔話がいくつかあるようです。
ここも3フロアの充実した展示なのに、空いています。
縄文のちょっとの展示と充実した弥生時代、古墳時代の展示があり、ここでも古くから塩を作っていたことが解説されています。
そして近世・近代の展示も充実。
現在の淡路島は兵庫県になっていますが、かつては阿波の領地でした。
阿波の蜂須賀氏の有力家臣の稲田氏が治めていましたが、維新で蜂須賀氏は幕府側、稲田氏は朝廷側に分裂。
維新後は政府に士族の処遇を求める稲田氏を蜂須賀氏が襲う稲田の変が起き、政府は蜂須賀氏側を処分するだけではなく、稲田家家臣も日高の静内に送られてしまいました。
また、洲本と福良の間に60年代まで鉄道が走っていたというのも驚きです。
淡路人形浄瑠璃やだんじりの展示もありました。
洲本城はかつては山上にありましたが、その後は麓に移り、そこを中心に、海側の内町、上流側の外町からなっていました。
海側の内町には2箇所からしか入ることが出来ませんでした。
昔の地図を見てから、淡路文化史料館を出て、現在の町へ。
地図で、左右の町の格子を見てください。
http://www.sumoto-cci.org/shimaaruki/sumoto/
今でも町の格子がまったく違います。
また、上に洲本川が流れていますが、その下にいわた通りという広い通りが左右に走っているところに注目です。イオンの下です。
堀端筋が内町と外町を分けていた掘り割りの跡です。
外町だったところには商店街がいくつかあり、入口付近は賑わっていたものの、奥は寂れていました。
かつて洲本にはカネボウの工場があったそうですが、その当時は違ったのでしょうか。
北側を東西に走るいわた通りは、不思議な感じで曲がっています。
これはブラタモリをいつも見ているとピンときますが、やはりかつての洲本川の流路のようです。
その後はここを鉄道が走っていたようですね。
洲本川を付け替えて出来た土地にかつてのカネボウの工場がありました。
現在でもいくつかの建物が残されています。
写真で見ると、となりにみなと銀行の建物も同じような色合いで建てられて配慮されていますし、道の建物側は殿中がありませんね。良い感じです。
短時間ですが、なかなか楽しい街歩きでした。
ただ、街自体ほとんど高低差がなく、津波が来たら心配ですね。
本州、四国とも橋でつながっているので離島感こそ薄いものの、東京からだと行きにくいですよね。
淡路島東部、中央あたりの洲本からレンタカーを借りて出発。
まずは洲本城、山上でとても景色が良く、洲本の町が一望できます。
また、砂浜が拡がり、大阪にも神戸にも近いのに海の透明度が高いことも印象的です。
城址には偽物の天守閣が作られていますが、中に入ることは出来ません。
洲本を出て、反時計回りに一周することにしました。
途中で東山寺(とうさんじ)に立ち寄り。
本当にこの道で大丈夫かと思うような狭い山道を進むとあります。
淡路島最古の木造建築とのこと。
山奥の寺なのに阿形と吽形がいます。ただ、仏像は見られなかった。
夢舞台で昼食を摂ってから、道の駅淡路、淡路島北端です。
明石海峡大橋が大きく見えます。
淡路島は明石海峡大橋で本州と、大鳴門橋で四国とつながっていますが、大鳴門橋が先に出来たのですね。
明石海峡大橋は世界最長の吊り橋で、3990mという計画が、工事の途中で起こった阪神淡路大震災のせいで3911mになってしまいました。
鉄道を通すことは想定されていないそうですが、水道管が通っていて、淡路島の水不足を解消したのだそうです。
北端を回って今度は西岸を南下。
淡路島は全体的に高い山がなく穏やかな地形で、海岸線もなだらかなため、海沿いの道のドライブが続きます。
アップダウンもそれほどないせいか、自転車も見かけます。
ただ、自転車はなぜか対向ばかり、時計回りが主流なのでしょうか。
北淡震災記念公園では、1995年の阪神淡路大震災でずれた野島断層がそのまま残っています。
家のすぐ横をこの断層が走ったものの倒壊しなかった「メモリアルハウス」も見学できます。
震災の体験コーナーもあってみていたが、揺れ方が鋭い。
建物の倒壊の写真もすごかった。
うってかわって近くにある淡路市北淡歴史民俗資料館は、北淡震災記念公園をよそに空いていました。
見学者はあとひとりのみ。
歴史を感じる?建物。
しかし、展示物は興味深く、土器で出来たイイダコ漁のたこつぼがあります。弥生時代でしょうか?
今でも漁をするとこれが網に掛かるらしい。
そのほか、塩作りのための土器が見つかるのも特徴的です。
塩はここで消費する分だけではなく、他の地域にも供給されていたようです。
阪神・淡路大震災で壊れたという布団だんじりの部分展示もありました。
その他、漁師の防寒着「どんざ」、魚を買い付けた「生船(なまふね)」、不遇の国学者鈴木重胤の展示もありました。
残りは神社をはしご。
伊弉諾神社は淡路国一宮で、相当に立派な神社。
でも、憲法改正ののぼりがうっとうしい。政治的主張をここでしなくとも。
おのころ神社は、鳥居だけ大きいものの、拝殿も小さなものでした。
さらに国分寺は跡形はあまりなく、山の中にある成相寺(なりあいじ)も中身は公開されていませんでした。
このあたりで時間がなくなり、一周を諦めて高速に乗って洲本まで戻りました。
さて、一夜明けて最後は洲本の探検。
まずは洲本市立淡路文化史料館。
狸が迎えてくれます。淡路島には狸にまつわる昔話がいくつかあるようです。
ここも3フロアの充実した展示なのに、空いています。
縄文のちょっとの展示と充実した弥生時代、古墳時代の展示があり、ここでも古くから塩を作っていたことが解説されています。
そして近世・近代の展示も充実。
現在の淡路島は兵庫県になっていますが、かつては阿波の領地でした。
阿波の蜂須賀氏の有力家臣の稲田氏が治めていましたが、維新で蜂須賀氏は幕府側、稲田氏は朝廷側に分裂。
維新後は政府に士族の処遇を求める稲田氏を蜂須賀氏が襲う稲田の変が起き、政府は蜂須賀氏側を処分するだけではなく、稲田家家臣も日高の静内に送られてしまいました。
また、洲本と福良の間に60年代まで鉄道が走っていたというのも驚きです。
淡路人形浄瑠璃やだんじりの展示もありました。
洲本城はかつては山上にありましたが、その後は麓に移り、そこを中心に、海側の内町、上流側の外町からなっていました。
海側の内町には2箇所からしか入ることが出来ませんでした。
昔の地図を見てから、淡路文化史料館を出て、現在の町へ。
地図で、左右の町の格子を見てください。
http://www.sumoto-cci.org/shimaaruki/sumoto/
今でも町の格子がまったく違います。
また、上に洲本川が流れていますが、その下にいわた通りという広い通りが左右に走っているところに注目です。イオンの下です。
堀端筋が内町と外町を分けていた掘り割りの跡です。
外町だったところには商店街がいくつかあり、入口付近は賑わっていたものの、奥は寂れていました。
かつて洲本にはカネボウの工場があったそうですが、その当時は違ったのでしょうか。
北側を東西に走るいわた通りは、不思議な感じで曲がっています。
これはブラタモリをいつも見ているとピンときますが、やはりかつての洲本川の流路のようです。
その後はここを鉄道が走っていたようですね。
洲本川を付け替えて出来た土地にかつてのカネボウの工場がありました。
現在でもいくつかの建物が残されています。
写真で見ると、となりにみなと銀行の建物も同じような色合いで建てられて配慮されていますし、道の建物側は殿中がありませんね。良い感じです。
短時間ですが、なかなか楽しい街歩きでした。
ただ、街自体ほとんど高低差がなく、津波が来たら心配ですね。
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