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与那国島旅行 [旅・出張]
ここのところストレスが溜まることが多く、何でも良いから遠くに行きたい(逃げたい)、でもまだ海外は怖い、ということで、与那国島に行ってきました。
日本の大きい島17(上位20位のうち、択捉島、国後島、色丹島の3等をのぞいたもの)を達成したので、思いついた島に自由に旅行です。
与那国島って、人口1700人に満たない、面積も30km2に満たない、小さな島です。
車ならば1時間もあれば一周でき、集落も3つほど。
でも、なぜか知名度高いですよね。何ででしょうか。
往きは那覇経由。
羽田から那覇までの便で、初めてA350XWBに乗りました。
離陸も衝撃音がなくふわっという感じ。
那覇で乗り換えて与那国空港、レンタカーを借りました。
この時点で猛烈な暑さ。
とりあえず西に向かうと久部良という集落があり、久部良バリという標識。
何だと思って行ってみると誰もおらず、割れ目がありました。
かつて人頭税が課されていた頃、妊婦にここを飛び越えさせて命を落とさせたり、流産させたりして口減らしをしていたという。
妊婦じゃなくても、飛び越えるのはちょっと怖いし、滑りそう。

そして最西端。西崎灯台。
ちなみに西崎と書いて「いりざき」。
西の特別な読み方かと思ったらそういう難しい話ではなく、太陽が入るのでいりざきという名前だそうです。
こうしたところに来るといつも天気が悪いのに、一瞬日没が見えました。
この後は下の雲に対応が隠れてしまった。

ちなみに与那国島は何につけても「最西端の・・・」が有名。
しかし、この手のものは厳密にやると、日本が実効支配している・・・とか、一般人が立ち入れる範囲で・・・とか色々注釈がつきます。
まず1泊、期待に反して夜も暑く、冷房を入れないと眠れなかった。
翌朝はティンダバナ(ティンダハナタ)へ。
泊まった祖納(そない)集落の背後にそそり立っている壁のような崖です。
車で行けるところまで行ってちょっと登山道のようなところを歩くのですが、入口にはなぜか③つの説明書きがあり、そして全部名前が違う。謎です。



そもそも与那国の言葉はかなで書いてあってもさっぱり意味がわかりません。
方言を話す人には出会わなかったけれど。
このティンダバナ(ティンダハナタ)からは祖納集落と海が一望できます。
そして今度は東崎(あがりざき)。
日が上がる崎だからあがりざき。
突き出た地形には与那国馬がいて、一心不乱に草を食んでいる。
草ってそんなに美味しいの?

さて、私は漫画もドラマも見ていないのですが、Dr.コトー診療所というドラマのためにわざわざ作った診療所が残されています。
中も含めてよく出来ていて、年季の入り方や、貼り付けられているポスターなど、本物の診療所のように見えます。
しばらく見ていると、ようやく人工的な古さなのかな、と思えてくる。
本当の診療所ではなくわざわざ作ったってすごいですよね。
一応観光スポットになっていますが、無人。
入場料は瓶に入れる。
あ、お釣りがないや、と思ったら、お釣りの小銭が入った容器が置いてあるので、そこからとる。
小さな島だから1日あれば全部見終わってしまいますよね。
最終日は意味なくドライブしました。
外に出ると暑さと日差しで耐えられないし、かといって涼めるような施設はないです。
まあ、特に島の南東部は起伏ある道から海が見えてドライブが楽しいですが。
そして、車で走っていて一番驚いたのは墓や墓地でした。
浦野墓地に固まっているほか、道沿いにも巨大なものが突然あったり。
巨大で何も名前とか彫られていなかったりするので、最初何かの施設かと思いました。
この墓地で肝試しとかしたら怖いだろうな・・・。


最後は海を見て、帰りました。

写真を見ると、きれいだけど、とにかく暑かった。
気温は東京と同じくらいなのに、羽田に帰ってきたら涼しかった。
湿度とかもあるのでしょうか。
冬に行くと良いかも。
日本の大きい島17(上位20位のうち、択捉島、国後島、色丹島の3等をのぞいたもの)を達成したので、思いついた島に自由に旅行です。
与那国島って、人口1700人に満たない、面積も30km2に満たない、小さな島です。
車ならば1時間もあれば一周でき、集落も3つほど。
でも、なぜか知名度高いですよね。何ででしょうか。
往きは那覇経由。
羽田から那覇までの便で、初めてA350XWBに乗りました。
離陸も衝撃音がなくふわっという感じ。
那覇で乗り換えて与那国空港、レンタカーを借りました。
この時点で猛烈な暑さ。
とりあえず西に向かうと久部良という集落があり、久部良バリという標識。
何だと思って行ってみると誰もおらず、割れ目がありました。
かつて人頭税が課されていた頃、妊婦にここを飛び越えさせて命を落とさせたり、流産させたりして口減らしをしていたという。
妊婦じゃなくても、飛び越えるのはちょっと怖いし、滑りそう。

そして最西端。西崎灯台。
ちなみに西崎と書いて「いりざき」。
西の特別な読み方かと思ったらそういう難しい話ではなく、太陽が入るのでいりざきという名前だそうです。
こうしたところに来るといつも天気が悪いのに、一瞬日没が見えました。
この後は下の雲に対応が隠れてしまった。

ちなみに与那国島は何につけても「最西端の・・・」が有名。
しかし、この手のものは厳密にやると、日本が実効支配している・・・とか、一般人が立ち入れる範囲で・・・とか色々注釈がつきます。
まず1泊、期待に反して夜も暑く、冷房を入れないと眠れなかった。
翌朝はティンダバナ(ティンダハナタ)へ。
泊まった祖納(そない)集落の背後にそそり立っている壁のような崖です。
車で行けるところまで行ってちょっと登山道のようなところを歩くのですが、入口にはなぜか③つの説明書きがあり、そして全部名前が違う。謎です。



そもそも与那国の言葉はかなで書いてあってもさっぱり意味がわかりません。
方言を話す人には出会わなかったけれど。
このティンダバナ(ティンダハナタ)からは祖納集落と海が一望できます。
そして今度は東崎(あがりざき)。
日が上がる崎だからあがりざき。
突き出た地形には与那国馬がいて、一心不乱に草を食んでいる。
草ってそんなに美味しいの?

さて、私は漫画もドラマも見ていないのですが、Dr.コトー診療所というドラマのためにわざわざ作った診療所が残されています。
中も含めてよく出来ていて、年季の入り方や、貼り付けられているポスターなど、本物の診療所のように見えます。
しばらく見ていると、ようやく人工的な古さなのかな、と思えてくる。
本当の診療所ではなくわざわざ作ったってすごいですよね。
一応観光スポットになっていますが、無人。
入場料は瓶に入れる。
あ、お釣りがないや、と思ったら、お釣りの小銭が入った容器が置いてあるので、そこからとる。
小さな島だから1日あれば全部見終わってしまいますよね。
最終日は意味なくドライブしました。
外に出ると暑さと日差しで耐えられないし、かといって涼めるような施設はないです。
まあ、特に島の南東部は起伏ある道から海が見えてドライブが楽しいですが。
そして、車で走っていて一番驚いたのは墓や墓地でした。
浦野墓地に固まっているほか、道沿いにも巨大なものが突然あったり。
巨大で何も名前とか彫られていなかったりするので、最初何かの施設かと思いました。
この墓地で肝試しとかしたら怖いだろうな・・・。


最後は海を見て、帰りました。

写真を見ると、きれいだけど、とにかく暑かった。
気温は東京と同じくらいなのに、羽田に帰ってきたら涼しかった。
湿度とかもあるのでしょうか。
冬に行くと良いかも。
舞鶴旅行 [旅・出張]
少々時間が経ってしまいましたが、7月に舞鶴に行ってきました。
関西に車で行く別の用事(釣りとも言う)があり、ついでに行ってきました。
舞鶴のあたり、東京からだと行きにくく、鉄道でも結構時間がかかります。
今回はさらに車だったのでなかなかのロングドライブでした。
舞鶴、どこに泊まろうかと調べると、東舞鶴と西舞鶴というのが出てきます。
どちらもそこそこの町で、2つの町が双子のようにある珍しい町です。
と言っても、両者は性格が大きく異なっています。
まずは東舞鶴。
舞鶴引揚記念館を見て、舞鶴赤れんがパークを見て、ガイドツアーに参加し、湾内クルーズも乗りました。
あまりにクソ暑く、アウトドアでもないので日焼け止めをさぼっていたら、外を歩いただけでひどい日焼けとなってしまいました。
東舞鶴はわずか150年の歴史の新しい町で、海軍の町として発展してきました。
基地があり、港には軍艦が泊まっていて、肉じゃがとカレーが名物です。
碁盤の目になっている町の南北の通りは軍艦の名前になっているという徹底ぶり。
「八島」の商店街ではイベントをやっていました。
赤レンガパークは、海軍の武器庫だったところで、一部が再開発されて店、博物館などが入っています。
多くある赤れんがの倉庫は、明治に作られたもの、大正に作られたものと、微妙に様式が異なり、公開されていないものもあります。
かつてはそれぞれから線路が延びていたそうです。
また、所々黒いところが残っているのは、戦時中にカモフラージュのためにタールを塗ったかららしい。
赤レンガパークの前の道路も妙に広く、軍事的な役割もあったようです。


東舞鶴と西舞鶴の間には五老スカイタワーという展望台があります。
舞鶴が天然の良港であることがよくわかります。
逆Y字のように深い入り江が拡がっており、そのYの両方の頂点に東舞鶴と西舞鶴があります。

さて、次は西舞鶴。
実はこちらが本渓舞鶴?
新しい町である東舞鶴に対して、こちらは田辺城を中心とする、戦国時代に坂の織る城下町です。
田辺城の別名が舞鶴城(ぶがくじょう)で、田辺という地名は他にもあることから、明治時代に舞鶴としたそうです。
その後、周辺に新舞鶴とか中舞鶴とか東舞鶴とか似た名前の町ができていき、結局合併して今の舞鶴市になっています。
田辺城跡公園になっていて行きましたが、あまりにクソ暑いので誰もいませんでした。

吉原入江と呼ばれる地区は古い街並みで、水路に向かって出入り口があって船があり、渋い銭湯があります(入らなかったけど)。
関西に車で行く別の用事(釣りとも言う)があり、ついでに行ってきました。
舞鶴のあたり、東京からだと行きにくく、鉄道でも結構時間がかかります。
今回はさらに車だったのでなかなかのロングドライブでした。
舞鶴、どこに泊まろうかと調べると、東舞鶴と西舞鶴というのが出てきます。
どちらもそこそこの町で、2つの町が双子のようにある珍しい町です。
と言っても、両者は性格が大きく異なっています。
まずは東舞鶴。
舞鶴引揚記念館を見て、舞鶴赤れんがパークを見て、ガイドツアーに参加し、湾内クルーズも乗りました。
あまりにクソ暑く、アウトドアでもないので日焼け止めをさぼっていたら、外を歩いただけでひどい日焼けとなってしまいました。
東舞鶴はわずか150年の歴史の新しい町で、海軍の町として発展してきました。
基地があり、港には軍艦が泊まっていて、肉じゃがとカレーが名物です。
碁盤の目になっている町の南北の通りは軍艦の名前になっているという徹底ぶり。
「八島」の商店街ではイベントをやっていました。
赤レンガパークは、海軍の武器庫だったところで、一部が再開発されて店、博物館などが入っています。
多くある赤れんがの倉庫は、明治に作られたもの、大正に作られたものと、微妙に様式が異なり、公開されていないものもあります。
かつてはそれぞれから線路が延びていたそうです。
また、所々黒いところが残っているのは、戦時中にカモフラージュのためにタールを塗ったかららしい。
赤レンガパークの前の道路も妙に広く、軍事的な役割もあったようです。


東舞鶴と西舞鶴の間には五老スカイタワーという展望台があります。
舞鶴が天然の良港であることがよくわかります。
逆Y字のように深い入り江が拡がっており、そのYの両方の頂点に東舞鶴と西舞鶴があります。

さて、次は西舞鶴。
実はこちらが本渓舞鶴?
新しい町である東舞鶴に対して、こちらは田辺城を中心とする、戦国時代に坂の織る城下町です。
田辺城の別名が舞鶴城(ぶがくじょう)で、田辺という地名は他にもあることから、明治時代に舞鶴としたそうです。
その後、周辺に新舞鶴とか中舞鶴とか東舞鶴とか似た名前の町ができていき、結局合併して今の舞鶴市になっています。
田辺城跡公園になっていて行きましたが、あまりにクソ暑いので誰もいませんでした。

吉原入江と呼ばれる地区は古い街並みで、水路に向かって出入り口があって船があり、渋い銭湯があります(入らなかったけど)。

三宅島旅行 [旅・出張]
月が変わってしまいましたが、GW前の4月、三宅島に行ってきました。
伊豆諸島としては、伊豆大島、八丈島に続いて3番目です。
伊豆諸島はフィリピン海プレートの上にあり、太平洋プレートが沈み込むことによってできた火山島です。
中でも三宅島は多くの人の記憶にあるように活発な火山で、直近では1940年、1962年、1983年、2000年とほぼ20年間隔で(大きな)噴火を起こしています。
2000年の噴火では、全島民約3,800人が4年5か月の間島外避難を強いられました。
活発な火山が作る地形、そこからの植生を含めた生態系の復活が繰り返されています。
そうした一見「住みづらい」島のように見えて、この地域の主要な神社が多く残るなど、伊豆諸島の中でも古くから人が集まっていた島でもあるようです。
今回は週末を利用した旅だったので、金曜日に仕事を終えてから竹芝桟橋に行って出航。
伊豆諸島への船は、近めの大島等を回る航路と、遠目の八丈島まで行く航路の2系統があり、今回は後者。
出発時から雨が降っていたものの、夜に東京を出航するのはなかなか良い雰囲気です。

船室は選べ、往路は夜行なので、特2等という昔の寝台列車のような二段ベッド。
これはなかなかいいかも。
湾内はそうでもないですが、外海に出るとそれなりに揺れます。

5:00に三宅島の錆ヶ浜港に到着。天気が悪い。

船はこの後御蔵島には着岸せず、八丈島に直行するとのこと。
三宅島は港が3つあり、風や波の状況で直前に着岸する港が決まります。
御蔵島は1つなので欠航しやすいとのこと。
降りる人は釣り竿を持った人ばかり。
早朝なので送迎してもらって宿で二度寝して朝食後、レンタカーを借りてスタート。
まずは西側を中心に。
島の中央部は2000年の噴火以降入れないので、島の周縁部が中心となります。
「天気が良ければ夕陽がきれいなのにねえ。」
いつものことですが・・・。

廃校した小学校が図書館となり、郷土資料館が併設されています。
離島というと島流し。
大島は軽犯罪、三宅島は破廉恥罪、八丈島は政治犯という区分があったそうです。
破廉恥罪とは何なのか。謎は深まります。
阿古地区には火山体験遊歩道があります。
ここには集落があったのですが、1983年の噴火で一夜にして溶岩に飲み込まれました。
このスピードなのでギリギリだったようですが、住民は避難して助かりました。
しかし、温泉が湧き、観光で栄えた集落は消失しました。
集落の海側に小学校と中学校があり、その建物がまるでダムのように溶岩をせき止めています。
遊歩道が設置されて何もない溶岩の上を歩けます。
何もないですが、ハチジョウイタドリを始めとして松が生え始め、植生がゆっくり回復していることがわかります。


また、三宅島には新澪池(しんりょういけ)という池が1763年の噴火の火口湖として形成され、観光地となっていましたが、これまた1983年の噴火で水蒸気爆発して「一瞬にして消え去った」とのこと。
激しすぎる。
翌日は前日よりもさらに天気が悪化。
時折夕立のような強い雨が降る中、東側を中心に。
このあたりは1940年の噴火で22時間で海中からひょうたん山と呼ばれる山ができ、さらに1962年(昭和37年)の噴火で埋め尽くされ三七山という山ができた。

椎取神社(しいとりじんじゃ)は2000年の噴火で社と鳥居が埋没。
このあたりには天然の良港(入江)があったらしいが埋没。

三宅島、周回道路はとても良く整備されていて、これでもかというくらいに公衆トイレもあります。
そして、火山関連の説明もとてもよく整備されています。
サタドー岬はなかなかの絶景でほんやりと御蔵島が見える。

御蔵島はこのようにお椀を伏せたような形で、(行ったことがないけれど)いかにも港が作りにくそうです。
なので1つしかないのか。
記録に残る噴火がない御蔵島に比べて、活発な三宅島は海岸線の変化も激しく、逆に言えば港を作れる海岸部の「傾斜」を作り出すことにもなっているようです。
帰りの船は昼出発。
錆ヶ浜港にはきれいな港湾施設が建っているものの、食事ができるところがないので、港近くの店でのり弁当とメンチカツ2つを買ってきて昼食。
人間も乗り込みますが、コンテナの積み込みもかなりやっていて、これに時間がかかったのか、15分ほど遅れての出航でした。

帰りは一番安い2等和室。船底で窓もありませんでした。

三宅島自体、鳥を見に来ている人を見ましたが、帰りの船もデッキで鳥を探している人がたくさんいました。
アホウドリ?でしょうか。
そしで、帰りの船で、旅に出て初めて、雲間から太陽が覗くのを見ました・・・。
次は「きれいな夕陽」を見に来たいですね。
伊豆諸島としては、伊豆大島、八丈島に続いて3番目です。
伊豆諸島はフィリピン海プレートの上にあり、太平洋プレートが沈み込むことによってできた火山島です。
中でも三宅島は多くの人の記憶にあるように活発な火山で、直近では1940年、1962年、1983年、2000年とほぼ20年間隔で(大きな)噴火を起こしています。
2000年の噴火では、全島民約3,800人が4年5か月の間島外避難を強いられました。
活発な火山が作る地形、そこからの植生を含めた生態系の復活が繰り返されています。
そうした一見「住みづらい」島のように見えて、この地域の主要な神社が多く残るなど、伊豆諸島の中でも古くから人が集まっていた島でもあるようです。
今回は週末を利用した旅だったので、金曜日に仕事を終えてから竹芝桟橋に行って出航。
伊豆諸島への船は、近めの大島等を回る航路と、遠目の八丈島まで行く航路の2系統があり、今回は後者。
出発時から雨が降っていたものの、夜に東京を出航するのはなかなか良い雰囲気です。

船室は選べ、往路は夜行なので、特2等という昔の寝台列車のような二段ベッド。
これはなかなかいいかも。
湾内はそうでもないですが、外海に出るとそれなりに揺れます。

5:00に三宅島の錆ヶ浜港に到着。天気が悪い。

船はこの後御蔵島には着岸せず、八丈島に直行するとのこと。
三宅島は港が3つあり、風や波の状況で直前に着岸する港が決まります。
御蔵島は1つなので欠航しやすいとのこと。
降りる人は釣り竿を持った人ばかり。
早朝なので送迎してもらって宿で二度寝して朝食後、レンタカーを借りてスタート。
まずは西側を中心に。
島の中央部は2000年の噴火以降入れないので、島の周縁部が中心となります。
「天気が良ければ夕陽がきれいなのにねえ。」
いつものことですが・・・。

廃校した小学校が図書館となり、郷土資料館が併設されています。
離島というと島流し。
大島は軽犯罪、三宅島は破廉恥罪、八丈島は政治犯という区分があったそうです。
破廉恥罪とは何なのか。謎は深まります。
阿古地区には火山体験遊歩道があります。
ここには集落があったのですが、1983年の噴火で一夜にして溶岩に飲み込まれました。
このスピードなのでギリギリだったようですが、住民は避難して助かりました。
しかし、温泉が湧き、観光で栄えた集落は消失しました。
集落の海側に小学校と中学校があり、その建物がまるでダムのように溶岩をせき止めています。
遊歩道が設置されて何もない溶岩の上を歩けます。
何もないですが、ハチジョウイタドリを始めとして松が生え始め、植生がゆっくり回復していることがわかります。


また、三宅島には新澪池(しんりょういけ)という池が1763年の噴火の火口湖として形成され、観光地となっていましたが、これまた1983年の噴火で水蒸気爆発して「一瞬にして消え去った」とのこと。
激しすぎる。
翌日は前日よりもさらに天気が悪化。
時折夕立のような強い雨が降る中、東側を中心に。
このあたりは1940年の噴火で22時間で海中からひょうたん山と呼ばれる山ができ、さらに1962年(昭和37年)の噴火で埋め尽くされ三七山という山ができた。

椎取神社(しいとりじんじゃ)は2000年の噴火で社と鳥居が埋没。
このあたりには天然の良港(入江)があったらしいが埋没。

三宅島、周回道路はとても良く整備されていて、これでもかというくらいに公衆トイレもあります。
そして、火山関連の説明もとてもよく整備されています。
サタドー岬はなかなかの絶景でほんやりと御蔵島が見える。

御蔵島はこのようにお椀を伏せたような形で、(行ったことがないけれど)いかにも港が作りにくそうです。
なので1つしかないのか。
記録に残る噴火がない御蔵島に比べて、活発な三宅島は海岸線の変化も激しく、逆に言えば港を作れる海岸部の「傾斜」を作り出すことにもなっているようです。
帰りの船は昼出発。
錆ヶ浜港にはきれいな港湾施設が建っているものの、食事ができるところがないので、港近くの店でのり弁当とメンチカツ2つを買ってきて昼食。
人間も乗り込みますが、コンテナの積み込みもかなりやっていて、これに時間がかかったのか、15分ほど遅れての出航でした。

帰りは一番安い2等和室。船底で窓もありませんでした。

三宅島自体、鳥を見に来ている人を見ましたが、帰りの船もデッキで鳥を探している人がたくさんいました。
アホウドリ?でしょうか。
そしで、帰りの船で、旅に出て初めて、雲間から太陽が覗くのを見ました・・・。
次は「きれいな夕陽」を見に来たいですね。
大崎上島としまなみ海道旅行 [旅・出張]
瀬戸内の大崎上島としまなみ海道に行ってきました。
毎年年度末が仕事の繁忙期ですが、今年は少し早めに片付いたため、3月末の平日に旅行して見ました。
社会人になってからは初めてかも知れません。
日本の大きな島20(北方領土をのぞいた17)は全部行ってしまったので、自由に島を選びました。
以前大崎下島の御手洗に行ったとき、となりに大崎上島という島があり、木江という町があることを知り、気にはなっていました。
大崎上島町は、今住んでいる武蔵野市の友好都市でもあります。
いつものように島でレンタカーを借りようと調べると、なんとレンタカーがない。
バスで回るのも不便だしな、と思ったところ、フェリーがあることに気がつき、島外で車を借りて上陸することにしました。
そして地図を見ると、帰りは隣の大三島に渡れば、しまなみ海道で戻ってくることができることに気がつきました。
一筆書き信奉者としてはたまらないコースです。
出発時の東京は珍しく雨、そして平日なので空港までの電車はちょっと大変。
でも、広島空港に着陸すると(珍しく)良い天気。
空港でレンタカーを借り、竹原港まで行ってフェリー。

フェリーなんて久し振り。自分で運転して乗るのは初めて。
車検証を持って切符売場に行き、車の長さに応じた料金を支払い、指定された場所で車の列に並び、指示に従って乗り込む。
ちょっとどきどきです。
フェリー自体は出航して20分で大崎上島に到着。
あっけないです。
港近くに海と島の歴史資料館 大望月館(おおおもちづきかん)があり、島について知ることができます。
この建物の当主は廻船問屋として発展し、議員にもなったとのこと。
8月の櫂伝馬競漕(かいでんまきょうそう)が島の行事のハイライトのようですね。
何もない離島と思いきや、木造船の時代から造船業が盛んで、ピーク時には29もの造船所が島内にあったそうです。
また、航海の学校も作ってしまって、今は広島商船高等専門学校になっています。
広島県立広島叡智学園という学校もあって、二十歳前の男性が多いという変わった人口構成になっています。
日が落ちる前に、神峰山(かんのみねやま)に登ってみました。
竹原、本州が見え、今治、四国が見え、しまなみ海道の端が見えます。
特に四国側は多くの船が往来しているのが見えます。
そして、静か・・・ではなく、遠くから造船所の音が聞こえます。


周りにも島があって、これまで旅行してきた「離島」とは雰囲気が違います。
東側に隣接する島々はしまなみ海道で尾道、今治と連結され、
西側に隣接する島々はとびしま海道で呉と連結されています。
結果、真ん中の大崎上島だけ、本州四国と架橋されていないという状況。
せっかくだから、隣の島まで橋を架けて、しまなみ海道やとびしま海道と連結してしまえば良いのに、と思いますが、例え橋を架けても尾道、今治、呉にはそれなりの時間がかかり、一方、フェリーは頻発していて竹原へと20分で本州に到達できるので、微妙ですね。
島の東側には木江という町があり、隣の大崎下島の御手洗同様栄えたところです。
木造船の技術があったからでしょうか、木造の3階建や5階建の家が残っています。

ただし、重要伝統的建造物保存地区となった御手洗と比較して、現存している建物はわずかであり、空き家となっているのか崩壊している3階建の建物もありました。
最後の日はまたフェリーで今度は大三島へ。

人口こそ大崎上島より少ないものの、しまなみ海道による交流人口が多いせいか、コンビニもあるし、喫茶店やレストランもあるし、急に都会です。
大山祇神社という立派な神社があります。
島にあるのに、伊予国一宮だそうです。
そう、大三島は愛媛県(今治市)なのですね。

隣の生口島は瀬戸田が中心で、耕三寺(こうさんじ)や向上寺(こうじょうじ)があります。


以前しまなみ海道を通ったときはバスだったので、こちらまで足を伸ばせませんでした。
こちらも観光客が多く、食堂や民宿も集まり、都会です。架橋の効果は大きい。
瀬戸田は柑橘類推しで、さらに平山郁夫美術館もありました。
平山郁夫、小学校の時から絵がかなり上手です。
瀬戸田で時間を食ってしまったので、因島と向島は泣く泣く通過して空港へ。
また来なければなりませんね。
毎年年度末が仕事の繁忙期ですが、今年は少し早めに片付いたため、3月末の平日に旅行して見ました。
社会人になってからは初めてかも知れません。
日本の大きな島20(北方領土をのぞいた17)は全部行ってしまったので、自由に島を選びました。
以前大崎下島の御手洗に行ったとき、となりに大崎上島という島があり、木江という町があることを知り、気にはなっていました。
大崎上島町は、今住んでいる武蔵野市の友好都市でもあります。
いつものように島でレンタカーを借りようと調べると、なんとレンタカーがない。
バスで回るのも不便だしな、と思ったところ、フェリーがあることに気がつき、島外で車を借りて上陸することにしました。
そして地図を見ると、帰りは隣の大三島に渡れば、しまなみ海道で戻ってくることができることに気がつきました。
一筆書き信奉者としてはたまらないコースです。
出発時の東京は珍しく雨、そして平日なので空港までの電車はちょっと大変。
でも、広島空港に着陸すると(珍しく)良い天気。
空港でレンタカーを借り、竹原港まで行ってフェリー。

フェリーなんて久し振り。自分で運転して乗るのは初めて。
車検証を持って切符売場に行き、車の長さに応じた料金を支払い、指定された場所で車の列に並び、指示に従って乗り込む。
ちょっとどきどきです。
フェリー自体は出航して20分で大崎上島に到着。
あっけないです。
港近くに海と島の歴史資料館 大望月館(おおおもちづきかん)があり、島について知ることができます。
この建物の当主は廻船問屋として発展し、議員にもなったとのこと。
8月の櫂伝馬競漕(かいでんまきょうそう)が島の行事のハイライトのようですね。
何もない離島と思いきや、木造船の時代から造船業が盛んで、ピーク時には29もの造船所が島内にあったそうです。
また、航海の学校も作ってしまって、今は広島商船高等専門学校になっています。
広島県立広島叡智学園という学校もあって、二十歳前の男性が多いという変わった人口構成になっています。
日が落ちる前に、神峰山(かんのみねやま)に登ってみました。
竹原、本州が見え、今治、四国が見え、しまなみ海道の端が見えます。
特に四国側は多くの船が往来しているのが見えます。
そして、静か・・・ではなく、遠くから造船所の音が聞こえます。


周りにも島があって、これまで旅行してきた「離島」とは雰囲気が違います。
東側に隣接する島々はしまなみ海道で尾道、今治と連結され、
西側に隣接する島々はとびしま海道で呉と連結されています。
結果、真ん中の大崎上島だけ、本州四国と架橋されていないという状況。
せっかくだから、隣の島まで橋を架けて、しまなみ海道やとびしま海道と連結してしまえば良いのに、と思いますが、例え橋を架けても尾道、今治、呉にはそれなりの時間がかかり、一方、フェリーは頻発していて竹原へと20分で本州に到達できるので、微妙ですね。
島の東側には木江という町があり、隣の大崎下島の御手洗同様栄えたところです。
木造船の技術があったからでしょうか、木造の3階建や5階建の家が残っています。

ただし、重要伝統的建造物保存地区となった御手洗と比較して、現存している建物はわずかであり、空き家となっているのか崩壊している3階建の建物もありました。
最後の日はまたフェリーで今度は大三島へ。

人口こそ大崎上島より少ないものの、しまなみ海道による交流人口が多いせいか、コンビニもあるし、喫茶店やレストランもあるし、急に都会です。
大山祇神社という立派な神社があります。
島にあるのに、伊予国一宮だそうです。
そう、大三島は愛媛県(今治市)なのですね。

隣の生口島は瀬戸田が中心で、耕三寺(こうさんじ)や向上寺(こうじょうじ)があります。


以前しまなみ海道を通ったときはバスだったので、こちらまで足を伸ばせませんでした。
こちらも観光客が多く、食堂や民宿も集まり、都会です。架橋の効果は大きい。
瀬戸田は柑橘類推しで、さらに平山郁夫美術館もありました。
平山郁夫、小学校の時から絵がかなり上手です。
瀬戸田で時間を食ってしまったので、因島と向島は泣く泣く通過して空港へ。
また来なければなりませんね。
高知旅行 [旅・出張]
毎年と言いつつ、コロナ禍で中断していた1月連休の旅行、3年ぶりに行ってきました。
目的地は高知。高知市を中心に東西に広がり、一筆書き信奉者としては攻めにくいところです。
実のところ高知市は仕事で何回か行ったことがあり、現存12天守の1つである高知城も行ったことがあります。
そのため、前半は西側、後半は東側に行きました。
まずは高知空港に午前に着いてからレンタカーを借りて西へ向かい、足摺岬へ。
高速道路は未完成のようで、足摺岬まで到達したときには夕方でした。

そこから四万十市中村に宿泊。
ちなみに、四万十市と四万十町があり、両者が隣接しているというややこしさ。
中村の町は小さいものの、飲食店も結構あって、過ごしやすいところだと思いました。
翌日午前は四万十川。
これ、写真やテレビで見たことはあるので、実はあまり期待していなかったのですが、良いですね。
冬は水の透明度が増していて、6-7mくらいの底が見えるのだそうです。
増水時は相当水が増えるようで川原も広いし、本流だけで21本の沈下橋があります。
この沈下橋というのは増水して沈んでも、流木などが引っかからないように、欄干など何もない橋です。
遠くの沈下橋を、自転車が通っていくのを見るととてものどかな感じがします。
しかし、実際に自動車で渡ってみたら、怖くて左右を見る余裕は全くありませんでした。

街灯もないし、夜は絶対怖いですよね。

昼過ぎに再び東に向かい、高知市まで戻って1泊。
最終日は東に向かいました。
高知市から西側に行くときはトンネルが多かったのに対して、高知市から東に向かうと、海沿いを走り、ドライブをしていてとても気持ちがいいです。

途中まで鉄道も並行して走ります。
津波対策として、避難タワーがしばしば目に入るのでぎょっとしますが・・・。
この避難タワー、関東だと九十九里浜で見るくらいですかね。
室戸岬、岬の先端は地味ですが、非常に面白いところです。
室戸世界ジオパークセンターというのもあって、地質・地形の説明もありました。
高知県、というか、四国の南半分は、フィリピン海プレートが沈み込むことによる付加体でできています。
そのため、南に行くほど新しい地質になっています。
そして、室戸岬はどんどん隆起しています。
なので、地震の度に港が浅くなってしまい、大変なのだそうです。
空海が修行し、悟りを開いたことで有名な御蔵洞(御厨人窟:みくろど)という洞窟があります。
これもかつて、空海が修行した1000年前は6mほど低く、海面近くにあったのだそうです。

さらに、こうした隆起によって海成段丘が形成されており、段丘の上も畑として利用されているそうです。
また、台風が通過する場所で風がすさまじいため、民家は要塞のように高い壁で囲われています。
これ、家の中に日が入るんでしょうか、というくらいです。
帰り道には吉良川町(きらがわ)の街並みを見てきました。
林業、製炭で栄えた町で、重要伝統的建造物保存地区に指定されています。
古い建物には水切り瓦といって、壁に何段かの瓦の庇がついています。
これは、大量の降雨を直接地面に落とすことによって漆喰の壁を守るものだそうです。
また、地形も面白く、ここも海成段丘なのか町が2段になっており、海沿いの低いところの家は2階建、その上の段の家は1階建となっています。

室戸は捕鯨も盛んだったそうで、キラメッセ室戸鯨館という小さいけれどきれいな博物館もありました。
3日間、レンタカーの走行距離は500kmを越え、普段はアイサイトのクルーズコントロールに慣れきってしまっているので運転は疲れましたが、移動しただけ距離感や土地の様子がわかって楽しめました。
四万十はまた行っても良いですかね。のんびりと。
目的地は高知。高知市を中心に東西に広がり、一筆書き信奉者としては攻めにくいところです。
実のところ高知市は仕事で何回か行ったことがあり、現存12天守の1つである高知城も行ったことがあります。
そのため、前半は西側、後半は東側に行きました。
まずは高知空港に午前に着いてからレンタカーを借りて西へ向かい、足摺岬へ。
高速道路は未完成のようで、足摺岬まで到達したときには夕方でした。

そこから四万十市中村に宿泊。
ちなみに、四万十市と四万十町があり、両者が隣接しているというややこしさ。
中村の町は小さいものの、飲食店も結構あって、過ごしやすいところだと思いました。
翌日午前は四万十川。
これ、写真やテレビで見たことはあるので、実はあまり期待していなかったのですが、良いですね。
冬は水の透明度が増していて、6-7mくらいの底が見えるのだそうです。
増水時は相当水が増えるようで川原も広いし、本流だけで21本の沈下橋があります。
この沈下橋というのは増水して沈んでも、流木などが引っかからないように、欄干など何もない橋です。
遠くの沈下橋を、自転車が通っていくのを見るととてものどかな感じがします。
しかし、実際に自動車で渡ってみたら、怖くて左右を見る余裕は全くありませんでした。

街灯もないし、夜は絶対怖いですよね。

昼過ぎに再び東に向かい、高知市まで戻って1泊。
最終日は東に向かいました。
高知市から西側に行くときはトンネルが多かったのに対して、高知市から東に向かうと、海沿いを走り、ドライブをしていてとても気持ちがいいです。

途中まで鉄道も並行して走ります。
津波対策として、避難タワーがしばしば目に入るのでぎょっとしますが・・・。
この避難タワー、関東だと九十九里浜で見るくらいですかね。
室戸岬、岬の先端は地味ですが、非常に面白いところです。
室戸世界ジオパークセンターというのもあって、地質・地形の説明もありました。
高知県、というか、四国の南半分は、フィリピン海プレートが沈み込むことによる付加体でできています。
そのため、南に行くほど新しい地質になっています。
そして、室戸岬はどんどん隆起しています。
なので、地震の度に港が浅くなってしまい、大変なのだそうです。
空海が修行し、悟りを開いたことで有名な御蔵洞(御厨人窟:みくろど)という洞窟があります。
これもかつて、空海が修行した1000年前は6mほど低く、海面近くにあったのだそうです。

さらに、こうした隆起によって海成段丘が形成されており、段丘の上も畑として利用されているそうです。
また、台風が通過する場所で風がすさまじいため、民家は要塞のように高い壁で囲われています。
これ、家の中に日が入るんでしょうか、というくらいです。
帰り道には吉良川町(きらがわ)の街並みを見てきました。
林業、製炭で栄えた町で、重要伝統的建造物保存地区に指定されています。
古い建物には水切り瓦といって、壁に何段かの瓦の庇がついています。
これは、大量の降雨を直接地面に落とすことによって漆喰の壁を守るものだそうです。
また、地形も面白く、ここも海成段丘なのか町が2段になっており、海沿いの低いところの家は2階建、その上の段の家は1階建となっています。

室戸は捕鯨も盛んだったそうで、キラメッセ室戸鯨館という小さいけれどきれいな博物館もありました。
3日間、レンタカーの走行距離は500kmを越え、普段はアイサイトのクルーズコントロールに慣れきってしまっているので運転は疲れましたが、移動しただけ距離感や土地の様子がわかって楽しめました。
四万十はまた行っても良いですかね。のんびりと。
茨城旅行 [旅・出張]
年末に1泊2日で茨城をドライブしてきました。
どこに旅行に行くかは普段でも悩むのに、年末はいろいろな施設が閉まっているし、当然タイミングを考えないとこむのでさらに悩みます。
ということで茨城県。
あまりガイドブックになるような場所でもなく、ぽつぽつと行ったところはあるものの、真面目に?観光したこともないところです。
まず初日は一番遠くまで、ということで袋田の滝へ。
高速道路からもさらに下道を走って着く、なかなか奥まったところです。
カーブがきつい山道を越えて、ということではないんですけどね。

滝なので見るのはただ、と思いきや、観瀑用の有料トンネルというのがあって、ここを通って行くと滝の前や横に出ることができます。
滝は4段の階段状になっていて、不思議な形です。
冬になると凍るようですが、少し氷が貼り付いている程度でした。
この滝はかつての海底火山の噴火でできた硬い岩が地形変化で斜めの岩盤になっているためにできているとのことでした。
その後、水戸で1泊。
夕食をとった店では、東日本大震災で水戸もかなりの被害を受けたとのことでした。
水戸の街の西側に位置する千波湖という湖、実はかつてはもっと東側まで拡がっていて、そこを埋め立てているので街の中に地盤が弱いところがあるそうです。
翌日は朝、水戸の街を歩いてみました。
水戸の街は千波湖の北の丘というか丘陵地に拡がっています。
歩いてみると、駅からちょっと離れたところに京成百貨店があったり、その間にぱらぱらと飲食店やマンションがあって、つかみ所が無い感じです。
古くて閉まっている建物もあれば、再開発らしき新しい建物もできています。
街の北部は東から本丸、二の丸、三の丸と水戸城の跡が残っています。
三の丸の跡は旧県庁と図書館として使われています。
県庁は移転したものの、まだ三の丸庁舎として残ってはいるようです。

大手門をくぐって二の丸に進むともっと落ち着いた雰囲気となり、幼稚園や中学校があります。
その奥には県立高校。
そして最後の本丸も県立高校。
県立高校が隣接しているのは不思議ですね。1つの高校にしてしまえば良いのに。
水戸は幕末に水戸学の本拠地。幕末に尊皇攘夷思想が強かった地域です。
明治維新につながる各地の藩校では「国学」が幅をきかせ、国学では「後に」入ってきた仏教より神道を重視するため、廃仏毀釈につながりやすい傾向があるようです。
水戸藩は維新前、日本で最も早い時期に廃仏毀釈を始めており、第2代光圀が寺院整理を行い、第9代斉昭が仏教の排斥を行っています。
今街を歩いていても寺より神社が目立つ印象があります。
そして昭和の時代には、終戦直前の1945年8月2日に空襲を受け、水戸城の三階櫓や当時の市役所も焼失しています。
駅から少し離れたときに、その時空襲を受けたものの生き延びた銀杏の木が残っています。

さらに東日本大震災。
東日本大震災というと三陸の津波のイメージがあるものの、それよりもずっと広い地域で被害がありました。
水戸でも前述のように建物の被害があり、水戸市役所も被害を受けて半壊、移転を余儀なくされたそうです。
出張では何度も来たことがあった水戸の街、歩いてみて、そして調べてみると色々な発見があります。
昼食は那珂湊まで行って魚市場で。

ここはすごい人出で、買い物をした人が発泡スチロールの箱を抱えて次々と出てきます。
年末のアメ横のような感じなのでしょうか。年末のアメ横は行ったことがありませんが。
ここで撮れた魚介類という感じではないですよね。チリ産のウニとかもありました。
ただ、ドンコや鰯、カレイといった地元らしき魚は安かったです。
茨城の郷土料理だという、アンコウの共酢を買いました。
続いて川を渡って、アクアワールド茨城県大洗水族館。
鰯の大群が泳ぐのが面白く、海沿いの立地も良いですね。
サメで有名なのだそうです。
大晦日なのに、大晦日だから?子供がたくさんいました。

最後は霞ヶ浦まで走り、牛久大仏。

突然現れる巨大な大仏、全長120m。
B級スポットの雰囲気プンプンですが、これは浄土真宗の施設で、親鸞が常陸国とゆかりがあるということでこの地にできたもののようです。
中に入って胸のあたりの高さから外を見ることができますが、あいにく富士山は見えませんでした。
そのほか、周りに何も無いし・・・。
ここで2022年最後の旅行はおしまい。
自宅に帰って紅白を見ました。
どこに旅行に行くかは普段でも悩むのに、年末はいろいろな施設が閉まっているし、当然タイミングを考えないとこむのでさらに悩みます。
ということで茨城県。
あまりガイドブックになるような場所でもなく、ぽつぽつと行ったところはあるものの、真面目に?観光したこともないところです。
まず初日は一番遠くまで、ということで袋田の滝へ。
高速道路からもさらに下道を走って着く、なかなか奥まったところです。
カーブがきつい山道を越えて、ということではないんですけどね。

滝なので見るのはただ、と思いきや、観瀑用の有料トンネルというのがあって、ここを通って行くと滝の前や横に出ることができます。
滝は4段の階段状になっていて、不思議な形です。
冬になると凍るようですが、少し氷が貼り付いている程度でした。
この滝はかつての海底火山の噴火でできた硬い岩が地形変化で斜めの岩盤になっているためにできているとのことでした。
その後、水戸で1泊。
夕食をとった店では、東日本大震災で水戸もかなりの被害を受けたとのことでした。
水戸の街の西側に位置する千波湖という湖、実はかつてはもっと東側まで拡がっていて、そこを埋め立てているので街の中に地盤が弱いところがあるそうです。
翌日は朝、水戸の街を歩いてみました。
水戸の街は千波湖の北の丘というか丘陵地に拡がっています。
歩いてみると、駅からちょっと離れたところに京成百貨店があったり、その間にぱらぱらと飲食店やマンションがあって、つかみ所が無い感じです。
古くて閉まっている建物もあれば、再開発らしき新しい建物もできています。
街の北部は東から本丸、二の丸、三の丸と水戸城の跡が残っています。
三の丸の跡は旧県庁と図書館として使われています。
県庁は移転したものの、まだ三の丸庁舎として残ってはいるようです。

大手門をくぐって二の丸に進むともっと落ち着いた雰囲気となり、幼稚園や中学校があります。
その奥には県立高校。
そして最後の本丸も県立高校。
県立高校が隣接しているのは不思議ですね。1つの高校にしてしまえば良いのに。
水戸は幕末に水戸学の本拠地。幕末に尊皇攘夷思想が強かった地域です。
明治維新につながる各地の藩校では「国学」が幅をきかせ、国学では「後に」入ってきた仏教より神道を重視するため、廃仏毀釈につながりやすい傾向があるようです。
水戸藩は維新前、日本で最も早い時期に廃仏毀釈を始めており、第2代光圀が寺院整理を行い、第9代斉昭が仏教の排斥を行っています。
今街を歩いていても寺より神社が目立つ印象があります。
そして昭和の時代には、終戦直前の1945年8月2日に空襲を受け、水戸城の三階櫓や当時の市役所も焼失しています。
駅から少し離れたときに、その時空襲を受けたものの生き延びた銀杏の木が残っています。

さらに東日本大震災。
東日本大震災というと三陸の津波のイメージがあるものの、それよりもずっと広い地域で被害がありました。
水戸でも前述のように建物の被害があり、水戸市役所も被害を受けて半壊、移転を余儀なくされたそうです。
出張では何度も来たことがあった水戸の街、歩いてみて、そして調べてみると色々な発見があります。
昼食は那珂湊まで行って魚市場で。

ここはすごい人出で、買い物をした人が発泡スチロールの箱を抱えて次々と出てきます。
年末のアメ横のような感じなのでしょうか。年末のアメ横は行ったことがありませんが。
ここで撮れた魚介類という感じではないですよね。チリ産のウニとかもありました。
ただ、ドンコや鰯、カレイといった地元らしき魚は安かったです。
茨城の郷土料理だという、アンコウの共酢を買いました。
続いて川を渡って、アクアワールド茨城県大洗水族館。
鰯の大群が泳ぐのが面白く、海沿いの立地も良いですね。
サメで有名なのだそうです。
大晦日なのに、大晦日だから?子供がたくさんいました。

最後は霞ヶ浦まで走り、牛久大仏。

突然現れる巨大な大仏、全長120m。
B級スポットの雰囲気プンプンですが、これは浄土真宗の施設で、親鸞が常陸国とゆかりがあるということでこの地にできたもののようです。
中に入って胸のあたりの高さから外を見ることができますが、あいにく富士山は見えませんでした。
そのほか、周りに何も無いし・・・。
ここで2022年最後の旅行はおしまい。
自宅に帰って紅白を見ました。
静嘉堂文庫美術館「 響きあう名宝 ―曜変・琳派のかがやき―」 [芸術]
二子玉川にあった静嘉堂文庫美術館の展示ギャラリーが丸の内に移転したとのことで行ってきました。
https://www.seikado.or.jp/exhibition/current_exhibition/
テレビで開館記念展をやっているのを見て行こうとしたら既にチケット取れず。
諦めずに日々チケット予約を眺めていたところ、1つだけ空きが出た瞬間に予約。
会期末ギリギリで行ってきました。
展示は大きく、名宝、中国文化、琳派、曜変天目と分かれていて、入るなり予約制なのに混んでいるので、
目当ての琳派に直行したあと、全体を見て回りました。
展示替えがあって、国宝の俵屋宗達「源氏物語関屋澪標図屛風」は見られなかったけれども、六曲一双の酒井抱一「波図屏風」 を見られたので、満足しました。
尾形光琳の金より酒井抱一の銀の方が好きですね。
本阿弥光悦「草木摺絵新古今集和歌巻」は地味に良かったです。
短歌や書はよくわからないのですけれど。
中国の馬遠、牧谿、沈南蘋の絵もさっと見て、最後は曜変天目を見ました。
曜変天目、人垣が出ていました。
二子玉川で見たときはぽつんと置かれていて、これすごいの?という感じでしたが・・・。
照明の具合もあるのかキラキラ輝いていて、きれいでした。
でも、あの釣り糸みたいなもので固定するのはなんとかならないものですかね。
在宅勤務が中心となり、会社にも毎日行かないし、ましてや丸の内なんて久し振り。
明るくてきれいで良いですね。
昔、大手町で働いていた頃とかをちょっと思い出したりします。
ここで働けたら良いですね。
https://www.seikado.or.jp/exhibition/current_exhibition/
テレビで開館記念展をやっているのを見て行こうとしたら既にチケット取れず。
諦めずに日々チケット予約を眺めていたところ、1つだけ空きが出た瞬間に予約。
会期末ギリギリで行ってきました。
展示は大きく、名宝、中国文化、琳派、曜変天目と分かれていて、入るなり予約制なのに混んでいるので、
目当ての琳派に直行したあと、全体を見て回りました。
展示替えがあって、国宝の俵屋宗達「源氏物語関屋澪標図屛風」は見られなかったけれども、六曲一双の酒井抱一「波図屏風」 を見られたので、満足しました。
尾形光琳の金より酒井抱一の銀の方が好きですね。
本阿弥光悦「草木摺絵新古今集和歌巻」は地味に良かったです。
短歌や書はよくわからないのですけれど。
中国の馬遠、牧谿、沈南蘋の絵もさっと見て、最後は曜変天目を見ました。
曜変天目、人垣が出ていました。
二子玉川で見たときはぽつんと置かれていて、これすごいの?という感じでしたが・・・。
照明の具合もあるのかキラキラ輝いていて、きれいでした。
でも、あの釣り糸みたいなもので固定するのはなんとかならないものですかね。
在宅勤務が中心となり、会社にも毎日行かないし、ましてや丸の内なんて久し振り。
明るくてきれいで良いですね。
昔、大手町で働いていた頃とかをちょっと思い出したりします。
ここで働けたら良いですね。
法隆寺金堂壁画 [旅・出張]
法隆寺の金堂壁画を見に奈良に行ってきました。日帰りで(涙)。
クラウドファンディングで保存に寄付すると30分見せてくれる、というものです。
法隆寺金堂壁画は法隆寺そのものと同様に正確な時期はわからないものの、7-8世紀と推定されるとても貴重なもの。
しかし、金堂の解体修理を行っていた1949年に火災が発生してしまいました。
その焼損した壁画は保存されており、それを30分ほど見せてくれるというのです。
温度湿度が管理された収蔵庫に入り、現物を見て驚いたのは、焼損した壁画が並べられているのではなく、
焼けた金堂内部の建材と共に組み上げ直され、あたかも金堂内部のように復元されていたことです。
内部の柱は内側表面がかなり炭化していて火事の現場のような生々しさですが、表面以外は焼け残っているようであり、特に外側は全く焼けていません。
「金堂で火災」といっても、全体が燃えたのでは無く、何らかの原因で内部で発火し、内側が燃えたということのようです。
構造を残していることから、このまま部材を使って復元しようという意見もあったそうですが、現在の金堂の内部は新に作り直したものとなっています。
ということで、焼けた部材で一部鋼材で支えられているものの復元された金堂内部に12面の金堂壁画が配置されています。
これまた焼けて無くなったというのではなく、かなりはっきりと臨閣が残されており、何が書いてあるかわかります。
焼けたことで、色などが失われているようです。
また、大きく欠損している部分は、外部から穴を開けて消火活動したためとのことでした。
なお、金堂内部にはこの12面の壁画の他、上部に山中羅漢図18面、飛天図20面がありました。
山中羅漢図は跡形もなく崩壊して破片しか残っていないものの(恐らく上に炎が拡がったため)、飛天図は解体工事のために取り外されていたためにそのまま残っています。
飛天図は1面だけ公開されていますが、実は全部飛天が左上から飛んでいる同じ絵だということを知りました。
なので、1面だけ公開されているのかも。
今は金堂内部には入れないので、本物ではなくレプリカでも金堂内部を復元したら面白いと思うのですよね。
莫高窟にもそんな展示がありました。
さて、奈良の日帰りはなかなか弾丸でした。
法隆寺の滞在時間は2時間弱、金堂壁画の他は五重塔の塑像、金堂の釈迦三尊像、大講堂、救世観世音菩薩をぱぱっと見る位しか時間がありませんでした。
ただ、救世観世音菩薩はたまたま公開していたので初めて見ることができたのはよかったです。
奈良、一度ゆっくり再訪したいところです。
クラウドファンディングで保存に寄付すると30分見せてくれる、というものです。
法隆寺金堂壁画は法隆寺そのものと同様に正確な時期はわからないものの、7-8世紀と推定されるとても貴重なもの。
しかし、金堂の解体修理を行っていた1949年に火災が発生してしまいました。
その焼損した壁画は保存されており、それを30分ほど見せてくれるというのです。
温度湿度が管理された収蔵庫に入り、現物を見て驚いたのは、焼損した壁画が並べられているのではなく、
焼けた金堂内部の建材と共に組み上げ直され、あたかも金堂内部のように復元されていたことです。
内部の柱は内側表面がかなり炭化していて火事の現場のような生々しさですが、表面以外は焼け残っているようであり、特に外側は全く焼けていません。
「金堂で火災」といっても、全体が燃えたのでは無く、何らかの原因で内部で発火し、内側が燃えたということのようです。
構造を残していることから、このまま部材を使って復元しようという意見もあったそうですが、現在の金堂の内部は新に作り直したものとなっています。
ということで、焼けた部材で一部鋼材で支えられているものの復元された金堂内部に12面の金堂壁画が配置されています。
これまた焼けて無くなったというのではなく、かなりはっきりと臨閣が残されており、何が書いてあるかわかります。
焼けたことで、色などが失われているようです。
また、大きく欠損している部分は、外部から穴を開けて消火活動したためとのことでした。
なお、金堂内部にはこの12面の壁画の他、上部に山中羅漢図18面、飛天図20面がありました。
山中羅漢図は跡形もなく崩壊して破片しか残っていないものの(恐らく上に炎が拡がったため)、飛天図は解体工事のために取り外されていたためにそのまま残っています。
飛天図は1面だけ公開されていますが、実は全部飛天が左上から飛んでいる同じ絵だということを知りました。
なので、1面だけ公開されているのかも。
今は金堂内部には入れないので、本物ではなくレプリカでも金堂内部を復元したら面白いと思うのですよね。
莫高窟にもそんな展示がありました。
さて、奈良の日帰りはなかなか弾丸でした。
法隆寺の滞在時間は2時間弱、金堂壁画の他は五重塔の塑像、金堂の釈迦三尊像、大講堂、救世観世音菩薩をぱぱっと見る位しか時間がありませんでした。
ただ、救世観世音菩薩はたまたま公開していたので初めて見ることができたのはよかったです。
奈良、一度ゆっくり再訪したいところです。
旧赤星邸 [日常]
今住んでいる家の近く、成蹊大学の前の五日市街道に面した広い敷地にコンクリートの壁で囲われた大きな屋敷が昔からありました。教会?修道会?らしき建物がありました。
さて、日本のバス釣りは、実業家の赤星鉄馬氏が、釣ってよし食べてよしの魚として、ラージマウスバスとスモールマウスバスを芦ノ湖に移入したところから始まります。
スモールマウスバスは定着せず、ラージマウスバスが「ブラックバス」として定着しました。
この2つの話が1つになったのは最近の話で、なんとこの近所の大きなお屋敷は、赤星鉄馬さんのお屋敷だったというのです。
その後修道会として使われていたものの役割を終え、武蔵野市に寄贈されて登録文化財になる見込みということで見学会があったので行ってきました。
申し込んだら案内が来たので、そんなものかと思いましたが、実際には10倍くらいの競争率だったらしい。

コンクリートで巡らされた塀の中に入ると建物があります。
この建物は1934年にアントニン・レーモンドの設計により建てられた建物です。
赤星鉄馬は今で言う六本木に自宅があったが、関東大震災で半壊したため、「カントリーハウス」として所有していたこの土地に引っ越してきて建てたのがこの建物。
アントニン・レーモンドはフランク・ロイド・ライトの助手として帝国ホテル建設に関与した人物として知られており、戦時中はアメリカで、日本の家屋を焼き尽くすための焼夷弾の開発に協力した人物。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89
戦後この建物はGHQに接収された後、カトリック・ナミュール・ノートルダム修道女会によってシスターの養成機関として使われてきましたが、2011年に最後の一人が巣立ち、閉鎖することになり、武蔵野市が所有することとなった。
建物は空き家なのであっさりしたもので、作り付けの家具が残されているものの、廃校のような感じ。
ドアや引手の位置が妙に低いのが時代を感じます。
今後耐震補強工事などを経て、5年後の2027年に一般公開される予定とのこと。
さて、日本のバス釣りは、実業家の赤星鉄馬氏が、釣ってよし食べてよしの魚として、ラージマウスバスとスモールマウスバスを芦ノ湖に移入したところから始まります。
スモールマウスバスは定着せず、ラージマウスバスが「ブラックバス」として定着しました。
この2つの話が1つになったのは最近の話で、なんとこの近所の大きなお屋敷は、赤星鉄馬さんのお屋敷だったというのです。
その後修道会として使われていたものの役割を終え、武蔵野市に寄贈されて登録文化財になる見込みということで見学会があったので行ってきました。
申し込んだら案内が来たので、そんなものかと思いましたが、実際には10倍くらいの競争率だったらしい。

コンクリートで巡らされた塀の中に入ると建物があります。
この建物は1934年にアントニン・レーモンドの設計により建てられた建物です。
赤星鉄馬は今で言う六本木に自宅があったが、関東大震災で半壊したため、「カントリーハウス」として所有していたこの土地に引っ越してきて建てたのがこの建物。
アントニン・レーモンドはフランク・ロイド・ライトの助手として帝国ホテル建設に関与した人物として知られており、戦時中はアメリカで、日本の家屋を焼き尽くすための焼夷弾の開発に協力した人物。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89
戦後この建物はGHQに接収された後、カトリック・ナミュール・ノートルダム修道女会によってシスターの養成機関として使われてきましたが、2011年に最後の一人が巣立ち、閉鎖することになり、武蔵野市が所有することとなった。
建物は空き家なのであっさりしたもので、作り付けの家具が残されているものの、廃校のような感じ。
ドアや引手の位置が妙に低いのが時代を感じます。
今後耐震補強工事などを経て、5年後の2027年に一般公開される予定とのこと。
屋久島旅行 [旅・出張]
3連休、屋久島に行ってきました。
2回続く3連休、本当は最初の連休で行くはずが、まさかの台風直撃(仕方なく千葉に釣りに行った)。
ばたばたと予定変更して2回目の3連休でようやく行けました。
国内旅行、秋は台風に振り回されますね。
前回飛行機に乗ったのは2020年1月の徳之島旅行、飛行機に乗るのは2年半ぶりということになります。
スマートフォンも変わっているのでアプリにログインし直したり慎重に準備。
空港にも1時間前に着きました。
今回は登山があるのでリュックサックなどの荷物があり、珍しく手荷物を預けました。
羽田空港第1ターミナル、無人の手荷物預け機があるのですが、うまくいかず結局有人カウンター。
時間をロスしたものの、出発して鹿児島空港、バスで港に到着。
この看板を見ると九州に来た感じがします。

高速船で種子島経由で屋久島の安房港。
到着したのは18:00過ぎにもかかわらず、西に来たのでまだ日没直後で薄明るい。
しかし、すぐに暗くなってしまい、ターミナルも入口が閉じられてしまい、バスが来るまでちょっと不安でした。
バスで真っ暗な中を走って宿へ。
夕食をとって翌朝に供えて早寝です。
翌朝、朝食と昼食を準備して屋久杉ツアーへ。
夜明け前からバスで登山口へ。
バスを降りた登山口で朝食をとると夜明け。6:00出発。
屋久杉登山の前半は、トロッコの線路をひたすら歩きます。
このトロッコは、世界遺産になるより前、杉の伐採が行われていたときのものですが、実はまだたまに走っているそうです。

トロッコの線路は何か所か川を渡っており、手すりがないところもあって怖いです。
川の水はきれいで、大きな岩がゴロゴロしています。
これは花崗岩らしい。

屋久島は高い山が並んでいます。
どれくらい高いかというと、鹿児島県の最高峰は屋久島にあります。
というか、九州の最高峰は屋久島にあります。
さらに、九州の高い山の1-8位は屋久島にあるそうです。
(「山」の解釈の違いで、島外では1-7位ともいう)
一方、隣の種子島は極めて扁平で、最高でも300mありません。
これはずっと疑問だったのですが、今回氷解。
このあたりの島はフィリピン海プレートの沈み込みによる付加体で、東から順に種子島、屋久島、口永良部島と並んでいます。
マグマはプレートの沈み込みから少し進んだところで発生するので、口永良部島は火山となっています。
そしてその中間にある屋久島にもマグマが上昇して貫入し、花崗岩の塊になっています。
つまり、屋久島は花崗岩の塊の山ということらしいです。
花崗岩の上の土壌は薄く、栄養にも乏しいので、植物にとっては厳しい環境です。
そのため、降水量は多いものの、杉の生長は遅く、その代わり長寿になるのだそうです。
そして、目が詰まり、腐りにくいので良材となります。
屋久杉というのはこうした環境で長生き期間育ったものをいい、特に杉として生物の種類が違うわけではありません。
屋久島では小さい杉は小杉と呼ばれています。
網1つのキーワードは「着生」で、倒木や切り株の上から木が生えてくる現象。
寄生とは違います。
土壌が薄いせいなのか、着床はとてもよく見ます。
中には、三大杉と呼ばれる、前の木の上に木が生え、その上に木が生えたものもあります。
これは夫婦杉と呼ばれる杉で、枝が隣の杉にくっついてしまっているものです。

大きな杉は中が腐敗して空洞になっていることが多いし、屋久杉は変な形をしていることが多いです。
これは、長寿で変形しているということだけではなく、良い形をした者は切られてしまったということもあるようです。
かなり登ったところにも切り株があるんですよね。
大王杉とか屋久杉を見ながら登ります。
上のほうに行くと、巨大な屋久杉がどーん、どーんとあって迫力があります。
そしてゴールが縄文杉。
正確な樹齢はわからないものの、今見つかっている屋久杉で一番巨大なもの。

ただし、遠目に見ることしかできません。
昔は近づいて触ったりできたそうです。
しかし、倒れた場合の危険性とか、縄文杉自体の保護のため、今は少し離れた展望台から見ることになっています。
さらに、展望台と屋久杉の間にいろいろ生えてきてしまって、余計見づらい。
世界遺産なのでいろいろ簡単ではないものの、伐採しようかという話になっているらしい。
ちなみに、屋久島登山中、ほとんど携帯電話は圏外ですが、縄文杉に着くと突然5Gの電波を拾います。
縄文杉登山、10時間、20kmと長丁場、帰りは結構疲れてきます。
ただ、少し怪しくなった程度で結局雨が降りませんでした。
登山用の雨具、今回も出番なしでした。
翌日バスで帰るとき、明るい時間に山を見ると、本当に岩の塊といった感じです。

船に乗る前、大川の滝(おおこのたき)を見に行きました。
これは、島の大部分を占める花崗岩ができた際、その周辺が熱変成して島を囲むようにホルンフェルスが形成され、これが固い岩盤のため、できた滝とのこと。

地学の教材みたいですよね。
ちなみに、2年半ぶりの島旅で、ついに日本の大きい島17(上位20位のうち、択捉島、国後島、色丹島の3等をのぞいたもの)を達成しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%B3%B6%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
あと屋久島を残した段階でコロナ禍になってしまって旅行に行けなくなってしまったんですよね。
感慨深いです。
2回続く3連休、本当は最初の連休で行くはずが、まさかの台風直撃(仕方なく千葉に釣りに行った)。
ばたばたと予定変更して2回目の3連休でようやく行けました。
国内旅行、秋は台風に振り回されますね。
前回飛行機に乗ったのは2020年1月の徳之島旅行、飛行機に乗るのは2年半ぶりということになります。
スマートフォンも変わっているのでアプリにログインし直したり慎重に準備。
空港にも1時間前に着きました。
今回は登山があるのでリュックサックなどの荷物があり、珍しく手荷物を預けました。
羽田空港第1ターミナル、無人の手荷物預け機があるのですが、うまくいかず結局有人カウンター。
時間をロスしたものの、出発して鹿児島空港、バスで港に到着。
この看板を見ると九州に来た感じがします。

高速船で種子島経由で屋久島の安房港。
到着したのは18:00過ぎにもかかわらず、西に来たのでまだ日没直後で薄明るい。
しかし、すぐに暗くなってしまい、ターミナルも入口が閉じられてしまい、バスが来るまでちょっと不安でした。
バスで真っ暗な中を走って宿へ。
夕食をとって翌朝に供えて早寝です。
翌朝、朝食と昼食を準備して屋久杉ツアーへ。
夜明け前からバスで登山口へ。
バスを降りた登山口で朝食をとると夜明け。6:00出発。
屋久杉登山の前半は、トロッコの線路をひたすら歩きます。
このトロッコは、世界遺産になるより前、杉の伐採が行われていたときのものですが、実はまだたまに走っているそうです。

トロッコの線路は何か所か川を渡っており、手すりがないところもあって怖いです。
川の水はきれいで、大きな岩がゴロゴロしています。
これは花崗岩らしい。

屋久島は高い山が並んでいます。
どれくらい高いかというと、鹿児島県の最高峰は屋久島にあります。
というか、九州の最高峰は屋久島にあります。
さらに、九州の高い山の1-8位は屋久島にあるそうです。
(「山」の解釈の違いで、島外では1-7位ともいう)
一方、隣の種子島は極めて扁平で、最高でも300mありません。
これはずっと疑問だったのですが、今回氷解。
このあたりの島はフィリピン海プレートの沈み込みによる付加体で、東から順に種子島、屋久島、口永良部島と並んでいます。
マグマはプレートの沈み込みから少し進んだところで発生するので、口永良部島は火山となっています。
そしてその中間にある屋久島にもマグマが上昇して貫入し、花崗岩の塊になっています。
つまり、屋久島は花崗岩の塊の山ということらしいです。
花崗岩の上の土壌は薄く、栄養にも乏しいので、植物にとっては厳しい環境です。
そのため、降水量は多いものの、杉の生長は遅く、その代わり長寿になるのだそうです。
そして、目が詰まり、腐りにくいので良材となります。
屋久杉というのはこうした環境で長生き期間育ったものをいい、特に杉として生物の種類が違うわけではありません。
屋久島では小さい杉は小杉と呼ばれています。
網1つのキーワードは「着生」で、倒木や切り株の上から木が生えてくる現象。
寄生とは違います。
土壌が薄いせいなのか、着床はとてもよく見ます。
中には、三大杉と呼ばれる、前の木の上に木が生え、その上に木が生えたものもあります。
これは夫婦杉と呼ばれる杉で、枝が隣の杉にくっついてしまっているものです。

大きな杉は中が腐敗して空洞になっていることが多いし、屋久杉は変な形をしていることが多いです。
これは、長寿で変形しているということだけではなく、良い形をした者は切られてしまったということもあるようです。
かなり登ったところにも切り株があるんですよね。
大王杉とか屋久杉を見ながら登ります。
上のほうに行くと、巨大な屋久杉がどーん、どーんとあって迫力があります。
そしてゴールが縄文杉。
正確な樹齢はわからないものの、今見つかっている屋久杉で一番巨大なもの。

ただし、遠目に見ることしかできません。
昔は近づいて触ったりできたそうです。
しかし、倒れた場合の危険性とか、縄文杉自体の保護のため、今は少し離れた展望台から見ることになっています。
さらに、展望台と屋久杉の間にいろいろ生えてきてしまって、余計見づらい。
世界遺産なのでいろいろ簡単ではないものの、伐採しようかという話になっているらしい。
ちなみに、屋久島登山中、ほとんど携帯電話は圏外ですが、縄文杉に着くと突然5Gの電波を拾います。
縄文杉登山、10時間、20kmと長丁場、帰りは結構疲れてきます。
ただ、少し怪しくなった程度で結局雨が降りませんでした。
登山用の雨具、今回も出番なしでした。
翌日バスで帰るとき、明るい時間に山を見ると、本当に岩の塊といった感じです。

船に乗る前、大川の滝(おおこのたき)を見に行きました。
これは、島の大部分を占める花崗岩ができた際、その周辺が熱変成して島を囲むようにホルンフェルスが形成され、これが固い岩盤のため、できた滝とのこと。

地学の教材みたいですよね。
ちなみに、2年半ぶりの島旅で、ついに日本の大きい島17(上位20位のうち、択捉島、国後島、色丹島の3等をのぞいたもの)を達成しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%B3%B6%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
あと屋久島を残した段階でコロナ禍になってしまって旅行に行けなくなってしまったんですよね。
感慨深いです。
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