三宅島旅行 [旅・出張]
月が変わってしまいましたが、GW前の4月、三宅島に行ってきました。
伊豆諸島としては、伊豆大島、八丈島に続いて3番目です。
伊豆諸島はフィリピン海プレートの上にあり、太平洋プレートが沈み込むことによってできた火山島です。
中でも三宅島は多くの人の記憶にあるように活発な火山で、直近では1940年、1962年、1983年、2000年とほぼ20年間隔で(大きな)噴火を起こしています。
2000年の噴火では、全島民約3,800人が4年5か月の間島外避難を強いられました。
活発な火山が作る地形、そこからの植生を含めた生態系の復活が繰り返されています。
そうした一見「住みづらい」島のように見えて、この地域の主要な神社が多く残るなど、伊豆諸島の中でも古くから人が集まっていた島でもあるようです。
今回は週末を利用した旅だったので、金曜日に仕事を終えてから竹芝桟橋に行って出航。
伊豆諸島への船は、近めの大島等を回る航路と、遠目の八丈島まで行く航路の2系統があり、今回は後者。
出発時から雨が降っていたものの、夜に東京を出航するのはなかなか良い雰囲気です。
船室は選べ、往路は夜行なので、特2等という昔の寝台列車のような二段ベッド。
これはなかなかいいかも。
湾内はそうでもないですが、外海に出るとそれなりに揺れます。
5:00に三宅島の錆ヶ浜港に到着。天気が悪い。
船はこの後御蔵島には着岸せず、八丈島に直行するとのこと。
三宅島は港が3つあり、風や波の状況で直前に着岸する港が決まります。
御蔵島は1つなので欠航しやすいとのこと。
降りる人は釣り竿を持った人ばかり。
早朝なので送迎してもらって宿で二度寝して朝食後、レンタカーを借りてスタート。
まずは西側を中心に。
島の中央部は2000年の噴火以降入れないので、島の周縁部が中心となります。
「天気が良ければ夕陽がきれいなのにねえ。」
いつものことですが・・・。
廃校した小学校が図書館となり、郷土資料館が併設されています。
離島というと島流し。
大島は軽犯罪、三宅島は破廉恥罪、八丈島は政治犯という区分があったそうです。
破廉恥罪とは何なのか。謎は深まります。
阿古地区には火山体験遊歩道があります。
ここには集落があったのですが、1983年の噴火で一夜にして溶岩に飲み込まれました。
このスピードなのでギリギリだったようですが、住民は避難して助かりました。
しかし、温泉が湧き、観光で栄えた集落は消失しました。
集落の海側に小学校と中学校があり、その建物がまるでダムのように溶岩をせき止めています。
遊歩道が設置されて何もない溶岩の上を歩けます。
何もないですが、ハチジョウイタドリを始めとして松が生え始め、植生がゆっくり回復していることがわかります。
また、三宅島には新澪池(しんりょういけ)という池が1763年の噴火の火口湖として形成され、観光地となっていましたが、これまた1983年の噴火で水蒸気爆発して「一瞬にして消え去った」とのこと。
激しすぎる。
翌日は前日よりもさらに天気が悪化。
時折夕立のような強い雨が降る中、東側を中心に。
このあたりは1940年の噴火で22時間で海中からひょうたん山と呼ばれる山ができ、さらに1962年(昭和37年)の噴火で埋め尽くされ三七山という山ができた。
椎取神社(しいとりじんじゃ)は2000年の噴火で社と鳥居が埋没。
このあたりには天然の良港(入江)があったらしいが埋没。
三宅島、周回道路はとても良く整備されていて、これでもかというくらいに公衆トイレもあります。
そして、火山関連の説明もとてもよく整備されています。
サタドー岬はなかなかの絶景でほんやりと御蔵島が見える。
御蔵島はこのようにお椀を伏せたような形で、(行ったことがないけれど)いかにも港が作りにくそうです。
なので1つしかないのか。
記録に残る噴火がない御蔵島に比べて、活発な三宅島は海岸線の変化も激しく、逆に言えば港を作れる海岸部の「傾斜」を作り出すことにもなっているようです。
帰りの船は昼出発。
錆ヶ浜港にはきれいな港湾施設が建っているものの、食事ができるところがないので、港近くの店でのり弁当とメンチカツ2つを買ってきて昼食。
人間も乗り込みますが、コンテナの積み込みもかなりやっていて、これに時間がかかったのか、15分ほど遅れての出航でした。
帰りは一番安い2等和室。船底で窓もありませんでした。
三宅島自体、鳥を見に来ている人を見ましたが、帰りの船もデッキで鳥を探している人がたくさんいました。
アホウドリ?でしょうか。
そしで、帰りの船で、旅に出て初めて、雲間から太陽が覗くのを見ました・・・。
次は「きれいな夕陽」を見に来たいですね。
伊豆諸島としては、伊豆大島、八丈島に続いて3番目です。
伊豆諸島はフィリピン海プレートの上にあり、太平洋プレートが沈み込むことによってできた火山島です。
中でも三宅島は多くの人の記憶にあるように活発な火山で、直近では1940年、1962年、1983年、2000年とほぼ20年間隔で(大きな)噴火を起こしています。
2000年の噴火では、全島民約3,800人が4年5か月の間島外避難を強いられました。
活発な火山が作る地形、そこからの植生を含めた生態系の復活が繰り返されています。
そうした一見「住みづらい」島のように見えて、この地域の主要な神社が多く残るなど、伊豆諸島の中でも古くから人が集まっていた島でもあるようです。
今回は週末を利用した旅だったので、金曜日に仕事を終えてから竹芝桟橋に行って出航。
伊豆諸島への船は、近めの大島等を回る航路と、遠目の八丈島まで行く航路の2系統があり、今回は後者。
出発時から雨が降っていたものの、夜に東京を出航するのはなかなか良い雰囲気です。
船室は選べ、往路は夜行なので、特2等という昔の寝台列車のような二段ベッド。
これはなかなかいいかも。
湾内はそうでもないですが、外海に出るとそれなりに揺れます。
5:00に三宅島の錆ヶ浜港に到着。天気が悪い。
船はこの後御蔵島には着岸せず、八丈島に直行するとのこと。
三宅島は港が3つあり、風や波の状況で直前に着岸する港が決まります。
御蔵島は1つなので欠航しやすいとのこと。
降りる人は釣り竿を持った人ばかり。
早朝なので送迎してもらって宿で二度寝して朝食後、レンタカーを借りてスタート。
まずは西側を中心に。
島の中央部は2000年の噴火以降入れないので、島の周縁部が中心となります。
「天気が良ければ夕陽がきれいなのにねえ。」
いつものことですが・・・。
廃校した小学校が図書館となり、郷土資料館が併設されています。
離島というと島流し。
大島は軽犯罪、三宅島は破廉恥罪、八丈島は政治犯という区分があったそうです。
破廉恥罪とは何なのか。謎は深まります。
阿古地区には火山体験遊歩道があります。
ここには集落があったのですが、1983年の噴火で一夜にして溶岩に飲み込まれました。
このスピードなのでギリギリだったようですが、住民は避難して助かりました。
しかし、温泉が湧き、観光で栄えた集落は消失しました。
集落の海側に小学校と中学校があり、その建物がまるでダムのように溶岩をせき止めています。
遊歩道が設置されて何もない溶岩の上を歩けます。
何もないですが、ハチジョウイタドリを始めとして松が生え始め、植生がゆっくり回復していることがわかります。
また、三宅島には新澪池(しんりょういけ)という池が1763年の噴火の火口湖として形成され、観光地となっていましたが、これまた1983年の噴火で水蒸気爆発して「一瞬にして消え去った」とのこと。
激しすぎる。
翌日は前日よりもさらに天気が悪化。
時折夕立のような強い雨が降る中、東側を中心に。
このあたりは1940年の噴火で22時間で海中からひょうたん山と呼ばれる山ができ、さらに1962年(昭和37年)の噴火で埋め尽くされ三七山という山ができた。
椎取神社(しいとりじんじゃ)は2000年の噴火で社と鳥居が埋没。
このあたりには天然の良港(入江)があったらしいが埋没。
三宅島、周回道路はとても良く整備されていて、これでもかというくらいに公衆トイレもあります。
そして、火山関連の説明もとてもよく整備されています。
サタドー岬はなかなかの絶景でほんやりと御蔵島が見える。
御蔵島はこのようにお椀を伏せたような形で、(行ったことがないけれど)いかにも港が作りにくそうです。
なので1つしかないのか。
記録に残る噴火がない御蔵島に比べて、活発な三宅島は海岸線の変化も激しく、逆に言えば港を作れる海岸部の「傾斜」を作り出すことにもなっているようです。
帰りの船は昼出発。
錆ヶ浜港にはきれいな港湾施設が建っているものの、食事ができるところがないので、港近くの店でのり弁当とメンチカツ2つを買ってきて昼食。
人間も乗り込みますが、コンテナの積み込みもかなりやっていて、これに時間がかかったのか、15分ほど遅れての出航でした。
帰りは一番安い2等和室。船底で窓もありませんでした。
三宅島自体、鳥を見に来ている人を見ましたが、帰りの船もデッキで鳥を探している人がたくさんいました。
アホウドリ?でしょうか。
そしで、帰りの船で、旅に出て初めて、雲間から太陽が覗くのを見ました・・・。
次は「きれいな夕陽」を見に来たいですね。
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