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日本の古代 [放送大学]

さて、今朝受けたのは3科目目の「日本の古代」。

「日本の中世」は鎌倉幕府成立前の院政時代くらいからだったが、「日本の古代」は倭国連合から院政時代くらいまで。
これまた日本の各地の映像が使われたテレビ科目でおもしろかった。

邪馬台国の場所といい、まだわからないことが多いこの時代だが、中央アジアとか他の地域と比較すると、やはり研究面で日本は恵まれている。ちょっと遺跡が見つかると何千とか万単位の木簡が見つかってしまうのだから。

とにかく天皇の名前を覚えるのが大変だが、単独の日本の歴史ということではなく東アジアという地域の中での歴史ととらえ直すことで視野が広がる。

中世でも元寇は大変なショックだったと思うが、古墳時代や飛鳥時代も、隋や唐といった強力な中国の統一王朝が出来て、パワーバランスの点で日本の危機感はやはり強いものだったのだと思う。
朝鮮半島にも介入して、白村江の戦いのように手痛い失敗をしている。その後は、攻められてしまうのではないかと慌ててふためいて、九州や瀬戸内にたくさん城を造ったりしている。
こう見てみると、地政学的な問題は近現代に通じている。

「日本の中世」で述べたように、ややもすると近代での歴史の視点は天皇制にひいきしているところがあり、大化の改新を過度に評価したりといったこともあるようだ。
日出ところの天子から・・・という遣隋使の上表文も有名だけど、実際はそんな余裕があるものではなかったようだ。

第1回の遣隋使は推古天皇即位から間もない600年に行われているが、失敗だったとされる。
隋に行ってみたは良いが、外交なので位や格といったものが儀礼的には重視される。
「おまえの官位は何なんだ?」
「えっ!・・・。」
ということで、日本は官位も整備されていなかった。隣を見ると、朝鮮から来た使いはきちんと官位制度があったりして、恥をかいたようだ。

また、隋帝に日本の政治はどうやってやっているの?と聞かれても、
「いや、朝日の出前に起きてお祈りしたりとか・・・」
みたいな話になって、それって政治っていうよりおまじないで統治している原始的な国じゃん、ということで散々であった。

そこで、日本では必死になって冠位十二階の制度やら、十七条の憲法やらを作って、どうにか次の遣隋使では名誉回復ということで、精一杯背伸びして、「日出ところの天子・・・」とやったところか。

地方でも一生懸命論語を練習した木簡(間違っていたりする)が見つかったりして、ともかく追いつくために必死だったようだ。

天皇制も代替わり毎にしょっちゅう血で血を洗う争いが起きているし、そうした試行錯誤があってようやく中世につながってくるということになる。

いやあ。
しかし、これも試験は選択式だったけど難しかった。
どうなることやら・・・。
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コメント 2

konishi

おお、さらに古くなっている・・・
この辺になると、小説なども限られているから、想像力が働かなくなってくるかな。。
by konishi (2011-01-31 12:30) 

高谷徹

それでも世界的に見れば、色々わかっている方じゃないでしょうか。
中国がいかに記録をきちんとしてたかですけどね。
by 高谷徹 (2011-02-01 01:52) 

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