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インド経済史 [放送大学]

放送大学でインド経済史の面接講義を受けてきました。
短時間で先史時代から独立直前までをさらったので、いろいろ疑問もありました。
今後勉強をしていこうと思います。
というか、行ってみたい!

レポートの宿題が出ましたがその概要を。

(1)カースト制
インドの歴史・文化・社会を考える上でもっとも特徴的なものがカースト制で、これがなぜ成立し、また存続しているのかが興味深いと感じた。
新たな民族が先住の民族が存在する地域に進出し、支配下に置くという現象はアーリア人のインド進入に限らず地域を問わず、時代を問わず頻繁に生じたと考えられる。その中で、なぜインドでは浄不浄概念に裏付けられたヴァルナによって人々を区分するという方法がなぜ生まれたのか。
ギリシャ時代やローマ帝国においても奴隷制は存在したが、浄不浄概念といった宗教的観念とは異なるように思われる。支配層と非支配層の人口の割合、文化的差異の大きさ、といったものが関係しているのかも知れない。
また、4段階のヴァルナは日本の士農工商と同様に単純であるため機能することは理解できるが、それが3000~4000ものジャーティに分かれたというのは相当に複雑である。これが機能するためには住民の多くがそれを理解していることが前提となるが、それは容易ではないはずである。また、ジャーティが出自によって決まるとすれば、多くの人口の出自がごまかされないように管理されていることが前提になる。朝鮮の身分制度は歴史を経るうちに多数が支配階級である両班になってしまった。さらに、ジャーティが職業と結びついているとすれば、経済社会の変化によって特定の階層の経済的な力が強まったり弱まったりすることによって上下関係が実質的に逆転してしまうことも起こりうるはずである。このように複雑なカースト制が成立しただけではなく維持されてきたことは不思議なことである。
我が国の部落差別問題、アメリカの人種差別問題、南アフリカのアパルトヘイトと比較して考えることで得るものが大きいのではないかと感じた。

(2)イスラムの影響
イスラム教は成立と同時に急速に拡大し、中東はもちろん、西は小アジア、地中海南岸、スペインまでに広がり、東でもイランや中央アジアにも広がった。しかし、インドはなぜイスラム化されなかったのかは興味深い点である。
宗教が広がる理由としては、その宗教の教理や普遍性もあるが、何よりもその宗教勢力が軍事的に優位であるとか、先進的な文化を有していると言ったことが考えられる。たとえば、前者では支配層が特定の宗教を有しており、それを強制することが典型的に考えられるし、後者であれば新しい宗教が持つ最新の技術や生活に対する憧れが強い力を持つことが考えられる。
インドはイラン、中央アジアとイスラム化された地域に囲まれながらイスラム化が進まなかった。インドで既に高い水準の文化が発展しており、新たな宗教に対する憧れが弱かったことも考えられるが、高度な文明を築いていた隣のイランもイスラム化されている。イスラム化された中央アジアで帝国を築いていたティムール帝国の末裔が築いたムガール帝国が200年も支配したにも関わらず、イスラム化が進まなかった。これは大変に興味深い点である。
土着の宗教を取り込んでいった多神教であるヒンズー教の影響力が強かったという味方もできるが、同様の経緯で成立したであろう神話を持っていたギリシャやローマも一神教であるキリスト教が一時期に急速に広がったという事実もある。
イラン、中央アジア以外にも、スペインのイスラム化とレコンキスタ、ジャガイモ飢饉で「スープか改宗か」と迫られてもカトリックが多いままのアイルランドと比較して考えることができるのではないかと感じた。

(3)イギリスの植民地時代の評価
帝国主義であるイギリスに植民地として搾取されたインドという観点があるが、植民地の功罪を論じるのは非常に難しい。
東インド会社、イギリスに食い物にされていた当のインドもムガール帝国という異民族、異教徒の支配であったと見ることができるのではないか。また、同様に食い物にされていた清も遊牧民による異民族支配と見ることができるのではないか。そう考えると、一口に「植民地支配」といっても様々な形態があることを思い知らされる。
様々な時代に世界の各所で行われた「支配」によって何が失われ、何が残されたのかは個別に分析していく観点が不可欠であると改めて感じた。インフラ整備、社会制度、国際競争力がある茶のような商品作物がインドで残されている。ソ連に属することになった中央アジアでは計画経済、綿花に代表される単一作物の偏重、宗教否定による既存文化の抑圧と言ったことが生じたが教育の普及、識字率の向上と言った遺産も残されている。イギリスの植民地支配は他の支配とどのように違うのか、それはなぜなのかを考えていくことも重要ではないかと感じた。我が国自身も朝鮮半島の支配の歴史に向き合わなければならない立場である。
金銀がインドに産出しないということを鍵として、植民地時代初期のマネーサプライの減少によるデフレーションの発生、その後の三角貿易への発展を説明していたところがイギリスによる植民地支配の1つの特徴として興味深かった。

(4)開発途上国としてのインド経済の可能性
イギリスの植民地支配下においても、インドの民族資本による産業化の胎動があった。
食料の自給を達成し、農業から剰余として生じる富や人材を工業化に振り向けていくというのが標準的な開発モデルだとすれば、インドはどの段階にあると考えればよいのか、強みと弱みはどこにあるのかに興味を持った。
初期の工業化段階では資本蓄積が難しく、政府が国営工場を設立したり、そのために海外から借金をしたりすることになる。我が国の工業化の段階でも政府が官立工場を造るといった努力がなされた。
一方、インドでは植民地時代の製鉄業やジュート業で民族資本が活躍していたとされている。
まず、ジュート業について考えれば、食べることはできない商品作物であるジュートを農家が生産できたということが着目される。商品作物を作って売り、それで得た金で食べ物を買うということが実現できるためには、食料自給に精一杯である段階を超えて剰余が発生する段階に達していなければならないし、食料を売り買いする貨幣経済が浸透している必要があると考えられる。後者の貨幣経済については講義で触れられたようにムガール帝国が貨幣での徴税を行っていたこととの関連を考えることができるかも知れない。また、「農民」の中でも富農の存在など階層性についても考慮が必要であろう。
次に、製鉄業については我が国でも当初は官営で導入が行われたように、先進的な技術はもちろん、一定規模の資本がなければ容易には参入できない業種である。これが民族資本において実現できたということは大変に興味深い事実である。農業を中心とした経済であれば、土地を独占する地主階層に富が集中することは考えられるが、インドにおいてマルワリ商人という階層にそれだけの資本が蓄積された経緯はユニークな点と感じる。
その後の歴史については計画経済、大きな政府志向の経済運営がなされて斬新的な産業化が進められた。海外からの投資に対しては抑制的な政策運営がなされ、それが通貨危機の影響を小さくした反面、さらなる成長の課題と認識されている。開発に必要な資本をどのように生み出すかという途上国開発の一事例として今後も知識を深めてみたい点である。
海外から繊維産業等の進出が進むバングラディシュと比較して見ることも、文化や歴史面で共通部分が多い中での政策の比較という面で有用であると思われる。

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konishi

インドに仕事で数度訪問したことありますが、我々のカウンターパートの方の階級と、お茶だしをしてくれるような方の階級の違いを目の当たりにして、ちょっとショックを受けたことを思い出します。

海外に活路を求める理系人材の多くは、この階級の壁を国内では超えられないことから・・・みたいなことをテレビで見たこともあります。

インド成長の可否はこのあたりにカギがあるかも知れません。
こんなのって、経済分析だけでは分からんものです。
by konishi (2010-07-26 11:24) 

高谷徹

確かにIT産業のように新しい職業は可能性があるのだけど、そもそもそういう職につけたり、そのための教育を受けられるのは上位のカーストに限られてしまう、という話もありました。海外に出てもカースト別に集まってしまうという話もあったりして。

やっぱり、実際に行ってみないとわかりませんね。
by 高谷徹 (2010-07-27 02:35) 

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