伊豆半島一周 [旅・出張]
9月の3連休、どこに行こうか決まらず、土曜日になっても悩みました。
近場に行こうとしても、台風15号の影響で、千葉や伊豆諸島には行ける状況ではありません。
結局昼になって伊豆半島を一周することを思いつき、出発。
今回は伊豆半島を反時計回りにまわってみることにして、まずは沼津に1泊。
沼津はそれほど大きな町ではないものの、繁華街もそれなりに活気がありますね。
翌朝は快晴。
沼津港大型展望水門「びゅうお」を見ました。
これは津波による水害を防ぐためのものらしいですが、展望台にもなっていて、ボランティアが説明もしています。
富士山の景色と、透き通った青い海が印象的でした。
ここから伊豆半島に入り、海岸線を走って、戸田。
「とだ」ではなく「へだ」。
ここは小さな湾になっていて、古くからの戸田港があります。
最近読んでいる地学の本の通り、湾には砂嘴が発達しています。
湾の中の海はとても穏やかで、海水浴をしている人も楽しそうでした。
砂嘴の先には造船博物館があります。
静かな港町ではありますが、ここ戸田は近代造船発祥の地なのだそうです。
幕末にロシアのプチャーチンが通商を求めて日本にディアナ号で訪れましたが、1854年の安政東海地震で大破、修理を試みるものの沈没してしまいます。
そこで、ロシア人船員の指揮の下、日本の船大工の力を借りて新たに帰国するための船を作ったのがここ戸田で、作られた船はヘダ号と名付けられたそうです。
また、この戸田は深海魚が食べられる食堂が並んでいて人気があります。
赤ムツ(ノドグロ)を食べました。
さらに南下して土肥金山。
伊豆半島で金が採れたとは知りませんでした。
続いて、堂ヶ島で定番の洞窟めぐりボート。
ここまでの西伊豆、海沿いを走り、海の向こうには富士山が見えて絶景です。
海も美しく、釣りをしている人もたくさんいてうらやましい。
また、結構起伏があって、山道も通ります。
ドライブは楽しい。
地形や雰囲気は離島のようで居て、東京からの近くにこんなに良いところがあるのかと驚きました。
ただ、観光客は多く、コンビニも多い。
夕方になって、松崎という小さな町を訪れました。
伊豆半島の町によくあるというなまこ壁があります。ただ、この場所だけ。
むしろ、その先にある明治商家中瀬邸が素晴らしい。
日本家屋の欄間や障子の幾何学的なデザインは本当に素晴らしいと思います。
町は桜の季節も美しいとのこと。
また来てみたい場所です。
少し郊外には国指定重要文化財岩科学校があります。
和洋折衷で学校とは思えぬ不思議な建物です。
伊豆半島の最南端、石廊崎(いろうざき)に着いたのは日が暮れた直後。
波はもちろん、風がものすごく強かった。
暗い中、下田に向かう途中、道にイノシシが登場してちょっとびっくりしました。
この日は下田に泊まり、寿司を食べに街に出ましたが、なんと海が荒れていて、名物の金目鯛を食べられず。
これまたまた来る必要がありますね。
翌朝は下田の町を見学。
下田ロープウェイで寝姿山に登ると、下田の町や下田湾が一望できます。
この小さな湾に、黒船がやってきたのですね。
町に降りて、稲田寺(とうでんじ)、宝福寺、下田開国博物館、了仙寺、黒船ミュージアムMOBS。
唐人お吉やら、ペリー来航の様子。
いち早く開港された下田は、欧米では一番有名な日本の町でした。
ちょっと面白いのは寺を見ると、関東なのにシキビが供えられていたところです。
ブラタモリでも出たペリーロード。
ここは観光地としても整備されていて、しゃれたカフェなどもあります。
全体として、下田は観光客が減っているとのこと。
確かに東京からはちょっと時間がかかりますが、電車で行ける半島、なかなか良いと思うのですけどね。
最後にダメ押しに寿司を食べて、5時間かけて東京に戻りました。
海岸線をまわったので、見られなかった内陸部も含めて、また行ってみたいところですね。
今度はできれば電車で行くか、時計回りにまわってみたいです。
近場に行こうとしても、台風15号の影響で、千葉や伊豆諸島には行ける状況ではありません。
結局昼になって伊豆半島を一周することを思いつき、出発。
今回は伊豆半島を反時計回りにまわってみることにして、まずは沼津に1泊。
沼津はそれほど大きな町ではないものの、繁華街もそれなりに活気がありますね。
翌朝は快晴。
沼津港大型展望水門「びゅうお」を見ました。
これは津波による水害を防ぐためのものらしいですが、展望台にもなっていて、ボランティアが説明もしています。
富士山の景色と、透き通った青い海が印象的でした。
ここから伊豆半島に入り、海岸線を走って、戸田。
「とだ」ではなく「へだ」。
ここは小さな湾になっていて、古くからの戸田港があります。
最近読んでいる地学の本の通り、湾には砂嘴が発達しています。
湾の中の海はとても穏やかで、海水浴をしている人も楽しそうでした。
砂嘴の先には造船博物館があります。
静かな港町ではありますが、ここ戸田は近代造船発祥の地なのだそうです。
幕末にロシアのプチャーチンが通商を求めて日本にディアナ号で訪れましたが、1854年の安政東海地震で大破、修理を試みるものの沈没してしまいます。
そこで、ロシア人船員の指揮の下、日本の船大工の力を借りて新たに帰国するための船を作ったのがここ戸田で、作られた船はヘダ号と名付けられたそうです。
また、この戸田は深海魚が食べられる食堂が並んでいて人気があります。
赤ムツ(ノドグロ)を食べました。
さらに南下して土肥金山。
伊豆半島で金が採れたとは知りませんでした。
続いて、堂ヶ島で定番の洞窟めぐりボート。
ここまでの西伊豆、海沿いを走り、海の向こうには富士山が見えて絶景です。
海も美しく、釣りをしている人もたくさんいてうらやましい。
また、結構起伏があって、山道も通ります。
ドライブは楽しい。
地形や雰囲気は離島のようで居て、東京からの近くにこんなに良いところがあるのかと驚きました。
ただ、観光客は多く、コンビニも多い。
夕方になって、松崎という小さな町を訪れました。
伊豆半島の町によくあるというなまこ壁があります。ただ、この場所だけ。
むしろ、その先にある明治商家中瀬邸が素晴らしい。
日本家屋の欄間や障子の幾何学的なデザインは本当に素晴らしいと思います。
町は桜の季節も美しいとのこと。
また来てみたい場所です。
少し郊外には国指定重要文化財岩科学校があります。
和洋折衷で学校とは思えぬ不思議な建物です。
伊豆半島の最南端、石廊崎(いろうざき)に着いたのは日が暮れた直後。
波はもちろん、風がものすごく強かった。
暗い中、下田に向かう途中、道にイノシシが登場してちょっとびっくりしました。
この日は下田に泊まり、寿司を食べに街に出ましたが、なんと海が荒れていて、名物の金目鯛を食べられず。
これまたまた来る必要がありますね。
翌朝は下田の町を見学。
下田ロープウェイで寝姿山に登ると、下田の町や下田湾が一望できます。
この小さな湾に、黒船がやってきたのですね。
町に降りて、稲田寺(とうでんじ)、宝福寺、下田開国博物館、了仙寺、黒船ミュージアムMOBS。
唐人お吉やら、ペリー来航の様子。
いち早く開港された下田は、欧米では一番有名な日本の町でした。
ちょっと面白いのは寺を見ると、関東なのにシキビが供えられていたところです。
ブラタモリでも出たペリーロード。
ここは観光地としても整備されていて、しゃれたカフェなどもあります。
全体として、下田は観光客が減っているとのこと。
確かに東京からはちょっと時間がかかりますが、電車で行ける半島、なかなか良いと思うのですけどね。
最後にダメ押しに寿司を食べて、5時間かけて東京に戻りました。
海岸線をまわったので、見られなかった内陸部も含めて、また行ってみたいところですね。
今度はできれば電車で行くか、時計回りにまわってみたいです。
五島福江旅行 [旅・出張]
日本の島シリーズ、今度は15番目の大きさの五島列島福江島に3日間の旅です。
長崎県の五島列島はいくつかの島の集合体で、行政区分も複雑ですが、大雑把に上五島、福江島(下五島)と分けても呼ばれます。
今回は福江島のみ。
行きは長崎空港で乗り換えて、五島つばき空港へ。
バスで乗り換えて福江港へ。
結構船の出入りが多く、それがまた島らしい雰囲気を醸し出しています。
マツモトキヨシもありました。
例によって?雨が降りだしました。
初日で時間も少ないので、まずは、五島観光歴史資料館を見学。
3フロアに亘って充実した展示。
各地の念仏踊りの展示も興味深く、ヘトマトというのも日本の祭りらしいなあ、と思いました。
大草離を男たちが神社に運んで奉納するのですが、昭和20年頃から、通りがかりの女性を無理矢理草履に乗せて胴上げするという行為が加わったそうです。
翌日も予想通り雨。
まずは福江港近くの武家屋敷通りと山本二三美術館。
福江は残念ながら1962年に福江大火と呼ばれる火事があって市の中心部が焼けてしまったものの、ここは古い街並みが残ります。
石垣の上に丸石を積み上げ、かまぼこ形の石で止める、というのがここのやり方のようです。
五島といえば教会。
ただ、戦国時代にキリスト教徒が増えたものの、弾圧で一旦ほぼ途絶えてしまい、その後九州本土の大村外海(そとめ)地区から移住した農民がキリスト教を密かに守ってきました。
明治維新直後もキリスト教弾圧は続きましたが、外国からの批判によってようやく信教の自由が認められました。
今ある教会はそれから建築されたもの。
なので、寺社仏閣のように古くはないですし、海外の立派な教会と違って素朴です。
ただ、生活に密着した感があって、集落の一つ一つに特徴的な教会があり、誰もいなくても勝手に中を見学できます。
靴を脱いで上がるんですよね。
そして教会とともに魅力的なのが海岸線で、入江が深く切り込んでいて、静かな湾を作っています。
隆起した地形と火山の噴火によって作られた作られた地形が組み合わさっていて、断崖絶壁があると思えば、美しい砂浜もあります。
教会と海岸線を見ながら一日かけて一周し、福江で飲んで2日目終了。
最後の晩は雨が強く、朝方は雨の音と雷の光で目が覚めるほどでした。
どうやら大雨警報が出ていました。
港に出ると、海の色が一変していました。
川から土砂が流れ出したのでしょうか。
福江城を覗いてみましたが、庭園は天候のために入場中止でした。
福江城、かつては高松城のように海に面した城だったのに、現在は埋め立てが進んで、街中になってしまっています。
でも、石垣や堀は風情があって、今は長崎県立五島高校が中にあるので、高校生が出たり入ったりしています。
昔は金沢大学もお城の中にありましたね。
さんざん雨降ったのに、帰ろうとすると晴れてきました。
帰りはジェットフィルで。
島を出ると、やはり途中で海の色が変わって、大雨の土砂の影響だったのかな、と思いました。
長崎に渡るとやはり大都会。
ちょっと時間があったので崇福寺を見て、蚊に刺されて帰ってきました。
長崎県の五島列島はいくつかの島の集合体で、行政区分も複雑ですが、大雑把に上五島、福江島(下五島)と分けても呼ばれます。
今回は福江島のみ。
行きは長崎空港で乗り換えて、五島つばき空港へ。
バスで乗り換えて福江港へ。
結構船の出入りが多く、それがまた島らしい雰囲気を醸し出しています。
マツモトキヨシもありました。
例によって?雨が降りだしました。
初日で時間も少ないので、まずは、五島観光歴史資料館を見学。
3フロアに亘って充実した展示。
各地の念仏踊りの展示も興味深く、ヘトマトというのも日本の祭りらしいなあ、と思いました。
大草離を男たちが神社に運んで奉納するのですが、昭和20年頃から、通りがかりの女性を無理矢理草履に乗せて胴上げするという行為が加わったそうです。
翌日も予想通り雨。
まずは福江港近くの武家屋敷通りと山本二三美術館。
福江は残念ながら1962年に福江大火と呼ばれる火事があって市の中心部が焼けてしまったものの、ここは古い街並みが残ります。
石垣の上に丸石を積み上げ、かまぼこ形の石で止める、というのがここのやり方のようです。
五島といえば教会。
ただ、戦国時代にキリスト教徒が増えたものの、弾圧で一旦ほぼ途絶えてしまい、その後九州本土の大村外海(そとめ)地区から移住した農民がキリスト教を密かに守ってきました。
明治維新直後もキリスト教弾圧は続きましたが、外国からの批判によってようやく信教の自由が認められました。
今ある教会はそれから建築されたもの。
なので、寺社仏閣のように古くはないですし、海外の立派な教会と違って素朴です。
ただ、生活に密着した感があって、集落の一つ一つに特徴的な教会があり、誰もいなくても勝手に中を見学できます。
靴を脱いで上がるんですよね。
そして教会とともに魅力的なのが海岸線で、入江が深く切り込んでいて、静かな湾を作っています。
隆起した地形と火山の噴火によって作られた作られた地形が組み合わさっていて、断崖絶壁があると思えば、美しい砂浜もあります。
教会と海岸線を見ながら一日かけて一周し、福江で飲んで2日目終了。
最後の晩は雨が強く、朝方は雨の音と雷の光で目が覚めるほどでした。
どうやら大雨警報が出ていました。
港に出ると、海の色が一変していました。
川から土砂が流れ出したのでしょうか。
福江城を覗いてみましたが、庭園は天候のために入場中止でした。
福江城、かつては高松城のように海に面した城だったのに、現在は埋め立てが進んで、街中になってしまっています。
でも、石垣や堀は風情があって、今は長崎県立五島高校が中にあるので、高校生が出たり入ったりしています。
昔は金沢大学もお城の中にありましたね。
さんざん雨降ったのに、帰ろうとすると晴れてきました。
帰りはジェットフィルで。
島を出ると、やはり途中で海の色が変わって、大雨の土砂の影響だったのかな、と思いました。
長崎に渡るとやはり大都会。
ちょっと時間があったので崇福寺を見て、蚊に刺されて帰ってきました。
隠岐(島後・島前)旅行 [旅・出張]
島の旅シリーズ、今回は島根県隠岐(島後・島前)。
隠岐と呼ばれる諸島は島後(どうご)と島前(どうぜん)の2つのエリアからなり、島後は島後という島一つ、島前は中之島、西ノ島、知夫里島の3つから主に構成されています。
■島後編
金曜日の夕に羽田空港から出雲空港に飛んで松江で一泊し、翌朝土曜日の朝に飛行機で、島後(沖ノ島町)の隠岐世界ジオパーク空港へ。
ATR42-600、なかなか味があります。
レンタカーで出発し、玉若酢命神社へ。
玉若酢命神社は入口にある八百杉(やおすぎ)という巨大な杉で有名です。
手水舎にアジサイが沈められているのもしゃれていますね(アジサイは毒だけど)。
隠岐はとにかく神社がたくさんあり、島とはいえ回りきれないほどです。
(実は寺もたくさんあり、幕末には隠岐に106あった寺は一時0になるほどの激しい廃仏毀釈で激減している。)
建築様式は隠岐造りと言われるもので、大社造りに似ています。
続いて向かったのは佐々木家住宅。
庄屋の家を保存したもので、中を案内してもらえます。
家の前の石段に生えている草(龍の髭)、雨だれがはねないようにする機能があるのだそうです。
知りませんでした。
隠岐はアジサイがとても多いです。
川沿いにも並んで咲いているのを見ると、これは自然に生えているのではなく、人が植えているのでしょう。
住んでいる人の心意気を感じますね。
途中で岩倉の乳房杉(ちちすぎ)に立ち寄った後、中村地区で昼食。さざえ丼。
さざえって、普段あまり食べないもの。最後に食べたのはいつだろう。
島後の北端近くまで来て、白島(崎)展望台。
ここは岬のように少し飛び出しているのですが、湿った海風で洗われているため、不思議なことに1年中アジサイが咲いているらしい。
そしてこれは島後の見所として有名なローソク岩。
日本海側は波が荒く浸食が激しいため、波で洞窟が穿たれ、それが崩壊して残るとこのような形が残るそうです。
これは思ったより小さいかな。
ここからは南下して、創生館、向いの隠岐郷土館、水若酢神社。
それぞれほぼ隣り合っています。
隠岐郷土館は学校だったような建物で、竹島の展示コーナーもありました。
そう、竹島は島根県沖ノ島町に属しているのです。
水若酢神社はやはり本殿は妻入の隠岐造り。
http://www.oki-geopark.jp/episode/lifestyle/culture/architecture/
土俵があります。これも隠岐によく見られるらしい。
夕方になってきて、都万の船小屋を見て、壇鏡神社、壇鏡の滝へ。
壇鏡の滝は入口がわからなくて難儀しましたが、ようやく到達した滝は雨の中、趣があってとても良かった。
レンタカーを返し、送ってもらって、夕食に魚をたくさん食べ、たくさん飲んで島後の一日が終了。
■島前・中之島編
一夜明けた朝、ホテルをチェックアウトして、島後の西郷港のフェリー乗り場からフェリーしらしまで出港して中之島の菱浦港に上陸。
中之島は行政区画では海士町となります。
過疎ばかりの離島の中で人口が増加に転じたことで有名で、人口の2割はIターン、Uターンだそうです。
山がちの隠岐の島々の中で唯一稲作が行われていることも特徴だそうです。
また、斜面では牛が放牧され、足が強くなります。足が強くないと体重を増やせないそうです。
菱浦港の建物は当地の踊りの名を取ったキンニャモンニャセンターと呼ばれる木で出来たしゃれた建物です。
ここから、海中展望船「あまんぼう」に。
随分と時間が経っているので地図で見てもわかりにくいですが、島前の三島は火山のカルデラを囲む地形が元になっています。
島に囲まれた内海はとても穏やかで、ほとんど波がないため、岸際まで木が生えています。
しかし、内海を出たところにある三郎岩の近くに行くと波が荒く、木が生えている位置が高くなっています。
日本海の浸食は激しく、どんどん海岸の様子が変わり、三郎岩も最近岩が4つになってしまったそうです。
その三郎岩近くで水中を見ます。
来るたびに船から餌をまいているので、魚が集まっています。
また、写真ではわかりにくいですが、海底は夥しい数のさざえでいっぱいです。
海中展望船を降り、船の時間まで菱浦の集落を歩いていました。
家々の庭もきれいに手を入れられていて、花が咲いています。
また、中国地方でよく見る恵比須さんがはまった瓦もありました。
■島前・西ノ島編
半日の中之島の菱浦港滞在後、昼に出航。
島前の島々の間は内航船という船が1時間に1回程度行き来しており、簡単に移動できます。
菱浦港を出航して15分で西ノ島の別府港に到着。
西ノ島中心部の浦郷港まで行き、定期観光船で出発。
西ノ島の観光のハイライトは、北側、日本海に洗われたダイナミックな海岸線です。
しかし、主要な集落、港は海外線と波が穏やかな南側の内海側にあります。
内海から北側に出るためには船で島を回り込まなければなりませんが、島の細い部分に 船引運河という水路が掘削されていて、ショートカットできます。
日本海に浸食された国賀海岸は切り立った崖になっていて、尖った岩や、浸食された洞窟がたくさんあります。
これらの近くを通るだけではなく、なんと洞窟の中に船で入ったりします。
その中でも深い、明暗(あけくれ)の岩屋にも入ることが出来ました。
暗いトンネルから、出口に近づき、外の光が入る瞬間は歓声が上がります。
ここに入れるのは天候次第で、何度も来ても入れない人がいるくらいだそうで、とてもラッキーでした。
浦郷港に戻り、今度は定期観光バスで出発。
赤尾展望所、 摩天崖と、断崖絶壁を陸から、上から見ます。
見晴らしは良いですが、崖の凄さは海からに軍配が上がるでしょうか。
また、西ノ島も牛や馬が放牧されているため・・・足下が落とし物だらけ。
景色を見るどころか下ばかり見ている感じでした。
帰りには由良比女神社。
ここは面白い由来があります。
由良比女が芋桶に乗って海を渡っているときに、イカが美しい手に無礼を働き、そのお詫びに毎年神社の前の浜にイカがたくさん上がるようになったそうです。
実際にこの浜にはイカが大量に押し寄せるそうで、最近でこそ減ったものの、今でもイカが集まるそうです。
http://www.town.nishinoshima.shimane.jp/midokoro/miru/138
これで夕方、宿にチェックインして、食堂で刺身定食を食べて西ノ島観光終了。
翌朝はバスで別府港に戻り、黒木御所阯。
隠岐に流された後醍醐天皇が住んだという場所です。
高台にあって、穏やかな内海がよく見えます。
返りに西ノ島ふるさと館を見て別府港に戻り、フェリーしらしまで出航。
知夫里島の来居港によってから外海へ出て、本土の境港に到着、バスで米子駅まで出て、特急やくもで岡山、のぞみで帰りました。
行きの飛行機と違って、帰りは一日がかりでした。
隠岐と呼ばれる諸島は島後(どうご)と島前(どうぜん)の2つのエリアからなり、島後は島後という島一つ、島前は中之島、西ノ島、知夫里島の3つから主に構成されています。
■島後編
金曜日の夕に羽田空港から出雲空港に飛んで松江で一泊し、翌朝土曜日の朝に飛行機で、島後(沖ノ島町)の隠岐世界ジオパーク空港へ。
ATR42-600、なかなか味があります。
レンタカーで出発し、玉若酢命神社へ。
玉若酢命神社は入口にある八百杉(やおすぎ)という巨大な杉で有名です。
手水舎にアジサイが沈められているのもしゃれていますね(アジサイは毒だけど)。
隠岐はとにかく神社がたくさんあり、島とはいえ回りきれないほどです。
(実は寺もたくさんあり、幕末には隠岐に106あった寺は一時0になるほどの激しい廃仏毀釈で激減している。)
建築様式は隠岐造りと言われるもので、大社造りに似ています。
続いて向かったのは佐々木家住宅。
庄屋の家を保存したもので、中を案内してもらえます。
家の前の石段に生えている草(龍の髭)、雨だれがはねないようにする機能があるのだそうです。
知りませんでした。
隠岐はアジサイがとても多いです。
川沿いにも並んで咲いているのを見ると、これは自然に生えているのではなく、人が植えているのでしょう。
住んでいる人の心意気を感じますね。
途中で岩倉の乳房杉(ちちすぎ)に立ち寄った後、中村地区で昼食。さざえ丼。
さざえって、普段あまり食べないもの。最後に食べたのはいつだろう。
島後の北端近くまで来て、白島(崎)展望台。
ここは岬のように少し飛び出しているのですが、湿った海風で洗われているため、不思議なことに1年中アジサイが咲いているらしい。
そしてこれは島後の見所として有名なローソク岩。
日本海側は波が荒く浸食が激しいため、波で洞窟が穿たれ、それが崩壊して残るとこのような形が残るそうです。
これは思ったより小さいかな。
ここからは南下して、創生館、向いの隠岐郷土館、水若酢神社。
それぞれほぼ隣り合っています。
隠岐郷土館は学校だったような建物で、竹島の展示コーナーもありました。
そう、竹島は島根県沖ノ島町に属しているのです。
水若酢神社はやはり本殿は妻入の隠岐造り。
http://www.oki-geopark.jp/episode/lifestyle/culture/architecture/
土俵があります。これも隠岐によく見られるらしい。
夕方になってきて、都万の船小屋を見て、壇鏡神社、壇鏡の滝へ。
壇鏡の滝は入口がわからなくて難儀しましたが、ようやく到達した滝は雨の中、趣があってとても良かった。
レンタカーを返し、送ってもらって、夕食に魚をたくさん食べ、たくさん飲んで島後の一日が終了。
■島前・中之島編
一夜明けた朝、ホテルをチェックアウトして、島後の西郷港のフェリー乗り場からフェリーしらしまで出港して中之島の菱浦港に上陸。
中之島は行政区画では海士町となります。
過疎ばかりの離島の中で人口が増加に転じたことで有名で、人口の2割はIターン、Uターンだそうです。
山がちの隠岐の島々の中で唯一稲作が行われていることも特徴だそうです。
また、斜面では牛が放牧され、足が強くなります。足が強くないと体重を増やせないそうです。
菱浦港の建物は当地の踊りの名を取ったキンニャモンニャセンターと呼ばれる木で出来たしゃれた建物です。
ここから、海中展望船「あまんぼう」に。
随分と時間が経っているので地図で見てもわかりにくいですが、島前の三島は火山のカルデラを囲む地形が元になっています。
島に囲まれた内海はとても穏やかで、ほとんど波がないため、岸際まで木が生えています。
しかし、内海を出たところにある三郎岩の近くに行くと波が荒く、木が生えている位置が高くなっています。
日本海の浸食は激しく、どんどん海岸の様子が変わり、三郎岩も最近岩が4つになってしまったそうです。
その三郎岩近くで水中を見ます。
来るたびに船から餌をまいているので、魚が集まっています。
また、写真ではわかりにくいですが、海底は夥しい数のさざえでいっぱいです。
海中展望船を降り、船の時間まで菱浦の集落を歩いていました。
家々の庭もきれいに手を入れられていて、花が咲いています。
また、中国地方でよく見る恵比須さんがはまった瓦もありました。
■島前・西ノ島編
半日の中之島の菱浦港滞在後、昼に出航。
島前の島々の間は内航船という船が1時間に1回程度行き来しており、簡単に移動できます。
菱浦港を出航して15分で西ノ島の別府港に到着。
西ノ島中心部の浦郷港まで行き、定期観光船で出発。
西ノ島の観光のハイライトは、北側、日本海に洗われたダイナミックな海岸線です。
しかし、主要な集落、港は海外線と波が穏やかな南側の内海側にあります。
内海から北側に出るためには船で島を回り込まなければなりませんが、島の細い部分に 船引運河という水路が掘削されていて、ショートカットできます。
日本海に浸食された国賀海岸は切り立った崖になっていて、尖った岩や、浸食された洞窟がたくさんあります。
これらの近くを通るだけではなく、なんと洞窟の中に船で入ったりします。
その中でも深い、明暗(あけくれ)の岩屋にも入ることが出来ました。
暗いトンネルから、出口に近づき、外の光が入る瞬間は歓声が上がります。
ここに入れるのは天候次第で、何度も来ても入れない人がいるくらいだそうで、とてもラッキーでした。
浦郷港に戻り、今度は定期観光バスで出発。
赤尾展望所、 摩天崖と、断崖絶壁を陸から、上から見ます。
見晴らしは良いですが、崖の凄さは海からに軍配が上がるでしょうか。
また、西ノ島も牛や馬が放牧されているため・・・足下が落とし物だらけ。
景色を見るどころか下ばかり見ている感じでした。
帰りには由良比女神社。
ここは面白い由来があります。
由良比女が芋桶に乗って海を渡っているときに、イカが美しい手に無礼を働き、そのお詫びに毎年神社の前の浜にイカがたくさん上がるようになったそうです。
実際にこの浜にはイカが大量に押し寄せるそうで、最近でこそ減ったものの、今でもイカが集まるそうです。
http://www.town.nishinoshima.shimane.jp/midokoro/miru/138
これで夕方、宿にチェックインして、食堂で刺身定食を食べて西ノ島観光終了。
翌朝はバスで別府港に戻り、黒木御所阯。
隠岐に流された後醍醐天皇が住んだという場所です。
高台にあって、穏やかな内海がよく見えます。
返りに西ノ島ふるさと館を見て別府港に戻り、フェリーしらしまで出航。
知夫里島の来居港によってから外海へ出て、本土の境港に到着、バスで米子駅まで出て、特急やくもで岡山、のぞみで帰りました。
行きの飛行機と違って、帰りは一日がかりでした。
淡路島旅行 [旅・出張]
日本の島シリーズ、今度は淡路島に行ってきました。
本州、四国とも橋でつながっているので離島感こそ薄いものの、東京からだと行きにくいですよね。
淡路島東部、中央あたりの洲本からレンタカーを借りて出発。
まずは洲本城、山上でとても景色が良く、洲本の町が一望できます。
また、砂浜が拡がり、大阪にも神戸にも近いのに海の透明度が高いことも印象的です。
城址には偽物の天守閣が作られていますが、中に入ることは出来ません。
洲本を出て、反時計回りに一周することにしました。
途中で東山寺(とうさんじ)に立ち寄り。
本当にこの道で大丈夫かと思うような狭い山道を進むとあります。
淡路島最古の木造建築とのこと。
山奥の寺なのに阿形と吽形がいます。ただ、仏像は見られなかった。
夢舞台で昼食を摂ってから、道の駅淡路、淡路島北端です。
明石海峡大橋が大きく見えます。
淡路島は明石海峡大橋で本州と、大鳴門橋で四国とつながっていますが、大鳴門橋が先に出来たのですね。
明石海峡大橋は世界最長の吊り橋で、3990mという計画が、工事の途中で起こった阪神淡路大震災のせいで3911mになってしまいました。
鉄道を通すことは想定されていないそうですが、水道管が通っていて、淡路島の水不足を解消したのだそうです。
北端を回って今度は西岸を南下。
淡路島は全体的に高い山がなく穏やかな地形で、海岸線もなだらかなため、海沿いの道のドライブが続きます。
アップダウンもそれほどないせいか、自転車も見かけます。
ただ、自転車はなぜか対向ばかり、時計回りが主流なのでしょうか。
北淡震災記念公園では、1995年の阪神淡路大震災でずれた野島断層がそのまま残っています。
家のすぐ横をこの断層が走ったものの倒壊しなかった「メモリアルハウス」も見学できます。
震災の体験コーナーもあってみていたが、揺れ方が鋭い。
建物の倒壊の写真もすごかった。
うってかわって近くにある淡路市北淡歴史民俗資料館は、北淡震災記念公園をよそに空いていました。
見学者はあとひとりのみ。
歴史を感じる?建物。
しかし、展示物は興味深く、土器で出来たイイダコ漁のたこつぼがあります。弥生時代でしょうか?
今でも漁をするとこれが網に掛かるらしい。
そのほか、塩作りのための土器が見つかるのも特徴的です。
塩はここで消費する分だけではなく、他の地域にも供給されていたようです。
阪神・淡路大震災で壊れたという布団だんじりの部分展示もありました。
その他、漁師の防寒着「どんざ」、魚を買い付けた「生船(なまふね)」、不遇の国学者鈴木重胤の展示もありました。
残りは神社をはしご。
伊弉諾神社は淡路国一宮で、相当に立派な神社。
でも、憲法改正ののぼりがうっとうしい。政治的主張をここでしなくとも。
おのころ神社は、鳥居だけ大きいものの、拝殿も小さなものでした。
さらに国分寺は跡形はあまりなく、山の中にある成相寺(なりあいじ)も中身は公開されていませんでした。
このあたりで時間がなくなり、一周を諦めて高速に乗って洲本まで戻りました。
さて、一夜明けて最後は洲本の探検。
まずは洲本市立淡路文化史料館。
狸が迎えてくれます。淡路島には狸にまつわる昔話がいくつかあるようです。
ここも3フロアの充実した展示なのに、空いています。
縄文のちょっとの展示と充実した弥生時代、古墳時代の展示があり、ここでも古くから塩を作っていたことが解説されています。
そして近世・近代の展示も充実。
現在の淡路島は兵庫県になっていますが、かつては阿波の領地でした。
阿波の蜂須賀氏の有力家臣の稲田氏が治めていましたが、維新で蜂須賀氏は幕府側、稲田氏は朝廷側に分裂。
維新後は政府に士族の処遇を求める稲田氏を蜂須賀氏が襲う稲田の変が起き、政府は蜂須賀氏側を処分するだけではなく、稲田家家臣も日高の静内に送られてしまいました。
また、洲本と福良の間に60年代まで鉄道が走っていたというのも驚きです。
淡路人形浄瑠璃やだんじりの展示もありました。
洲本城はかつては山上にありましたが、その後は麓に移り、そこを中心に、海側の内町、上流側の外町からなっていました。
海側の内町には2箇所からしか入ることが出来ませんでした。
昔の地図を見てから、淡路文化史料館を出て、現在の町へ。
地図で、左右の町の格子を見てください。
http://www.sumoto-cci.org/shimaaruki/sumoto/
今でも町の格子がまったく違います。
また、上に洲本川が流れていますが、その下にいわた通りという広い通りが左右に走っているところに注目です。イオンの下です。
堀端筋が内町と外町を分けていた掘り割りの跡です。
外町だったところには商店街がいくつかあり、入口付近は賑わっていたものの、奥は寂れていました。
かつて洲本にはカネボウの工場があったそうですが、その当時は違ったのでしょうか。
北側を東西に走るいわた通りは、不思議な感じで曲がっています。
これはブラタモリをいつも見ているとピンときますが、やはりかつての洲本川の流路のようです。
その後はここを鉄道が走っていたようですね。
洲本川を付け替えて出来た土地にかつてのカネボウの工場がありました。
現在でもいくつかの建物が残されています。
写真で見ると、となりにみなと銀行の建物も同じような色合いで建てられて配慮されていますし、道の建物側は殿中がありませんね。良い感じです。
短時間ですが、なかなか楽しい街歩きでした。
ただ、街自体ほとんど高低差がなく、津波が来たら心配ですね。
本州、四国とも橋でつながっているので離島感こそ薄いものの、東京からだと行きにくいですよね。
淡路島東部、中央あたりの洲本からレンタカーを借りて出発。
まずは洲本城、山上でとても景色が良く、洲本の町が一望できます。
また、砂浜が拡がり、大阪にも神戸にも近いのに海の透明度が高いことも印象的です。
城址には偽物の天守閣が作られていますが、中に入ることは出来ません。
洲本を出て、反時計回りに一周することにしました。
途中で東山寺(とうさんじ)に立ち寄り。
本当にこの道で大丈夫かと思うような狭い山道を進むとあります。
淡路島最古の木造建築とのこと。
山奥の寺なのに阿形と吽形がいます。ただ、仏像は見られなかった。
夢舞台で昼食を摂ってから、道の駅淡路、淡路島北端です。
明石海峡大橋が大きく見えます。
淡路島は明石海峡大橋で本州と、大鳴門橋で四国とつながっていますが、大鳴門橋が先に出来たのですね。
明石海峡大橋は世界最長の吊り橋で、3990mという計画が、工事の途中で起こった阪神淡路大震災のせいで3911mになってしまいました。
鉄道を通すことは想定されていないそうですが、水道管が通っていて、淡路島の水不足を解消したのだそうです。
北端を回って今度は西岸を南下。
淡路島は全体的に高い山がなく穏やかな地形で、海岸線もなだらかなため、海沿いの道のドライブが続きます。
アップダウンもそれほどないせいか、自転車も見かけます。
ただ、自転車はなぜか対向ばかり、時計回りが主流なのでしょうか。
北淡震災記念公園では、1995年の阪神淡路大震災でずれた野島断層がそのまま残っています。
家のすぐ横をこの断層が走ったものの倒壊しなかった「メモリアルハウス」も見学できます。
震災の体験コーナーもあってみていたが、揺れ方が鋭い。
建物の倒壊の写真もすごかった。
うってかわって近くにある淡路市北淡歴史民俗資料館は、北淡震災記念公園をよそに空いていました。
見学者はあとひとりのみ。
歴史を感じる?建物。
しかし、展示物は興味深く、土器で出来たイイダコ漁のたこつぼがあります。弥生時代でしょうか?
今でも漁をするとこれが網に掛かるらしい。
そのほか、塩作りのための土器が見つかるのも特徴的です。
塩はここで消費する分だけではなく、他の地域にも供給されていたようです。
阪神・淡路大震災で壊れたという布団だんじりの部分展示もありました。
その他、漁師の防寒着「どんざ」、魚を買い付けた「生船(なまふね)」、不遇の国学者鈴木重胤の展示もありました。
残りは神社をはしご。
伊弉諾神社は淡路国一宮で、相当に立派な神社。
でも、憲法改正ののぼりがうっとうしい。政治的主張をここでしなくとも。
おのころ神社は、鳥居だけ大きいものの、拝殿も小さなものでした。
さらに国分寺は跡形はあまりなく、山の中にある成相寺(なりあいじ)も中身は公開されていませんでした。
このあたりで時間がなくなり、一周を諦めて高速に乗って洲本まで戻りました。
さて、一夜明けて最後は洲本の探検。
まずは洲本市立淡路文化史料館。
狸が迎えてくれます。淡路島には狸にまつわる昔話がいくつかあるようです。
ここも3フロアの充実した展示なのに、空いています。
縄文のちょっとの展示と充実した弥生時代、古墳時代の展示があり、ここでも古くから塩を作っていたことが解説されています。
そして近世・近代の展示も充実。
現在の淡路島は兵庫県になっていますが、かつては阿波の領地でした。
阿波の蜂須賀氏の有力家臣の稲田氏が治めていましたが、維新で蜂須賀氏は幕府側、稲田氏は朝廷側に分裂。
維新後は政府に士族の処遇を求める稲田氏を蜂須賀氏が襲う稲田の変が起き、政府は蜂須賀氏側を処分するだけではなく、稲田家家臣も日高の静内に送られてしまいました。
また、洲本と福良の間に60年代まで鉄道が走っていたというのも驚きです。
淡路人形浄瑠璃やだんじりの展示もありました。
洲本城はかつては山上にありましたが、その後は麓に移り、そこを中心に、海側の内町、上流側の外町からなっていました。
海側の内町には2箇所からしか入ることが出来ませんでした。
昔の地図を見てから、淡路文化史料館を出て、現在の町へ。
地図で、左右の町の格子を見てください。
http://www.sumoto-cci.org/shimaaruki/sumoto/
今でも町の格子がまったく違います。
また、上に洲本川が流れていますが、その下にいわた通りという広い通りが左右に走っているところに注目です。イオンの下です。
堀端筋が内町と外町を分けていた掘り割りの跡です。
外町だったところには商店街がいくつかあり、入口付近は賑わっていたものの、奥は寂れていました。
かつて洲本にはカネボウの工場があったそうですが、その当時は違ったのでしょうか。
北側を東西に走るいわた通りは、不思議な感じで曲がっています。
これはブラタモリをいつも見ているとピンときますが、やはりかつての洲本川の流路のようです。
その後はここを鉄道が走っていたようですね。
洲本川を付け替えて出来た土地にかつてのカネボウの工場がありました。
現在でもいくつかの建物が残されています。
写真で見ると、となりにみなと銀行の建物も同じような色合いで建てられて配慮されていますし、道の建物側は殿中がありませんね。良い感じです。
短時間ですが、なかなか楽しい街歩きでした。
ただ、街自体ほとんど高低差がなく、津波が来たら心配ですね。
八丈島旅行 [旅・出張]
最近は島の旅にはまっていて、世界の島、日本の島、東京の島という3つのシリーズが並行実施中。
今回は東京の島。
東京には伊豆諸島と小笠原諸島があり、今回は伊豆諸島です。
先日行った最大の島伊豆大島に続いて、二番目に大きい八丈島です。
車なら一周して2時間程度。
伊豆大島は水中翼船で東京から日帰りできる距離にあるのに対して、八丈島はずっと南にあり、長崎県や高知県あたりと同じ緯度にあります。
気候も明らかに南国風です。
伊豆大島との違いはそれだけではなく、八丈島まで行くのは流れが速い黒潮を越えなければならないことが大きい。
そのため、船で行くことは時間がかかる上に難しかったという歴史があり、流人が多く送られたのもそのためでもあります。
ところが、現在では伊豆諸島の中で唯一ジェット機が羽田から1日3便就航していて所要時間55分。
交通の便が良い観光地となりました。
羽田を午後出発だったため、ゆっくりと出発するはずが、何と中央線が運転見合わせ。
井の頭線で迂回し、浜松町で1分でモノレールに乗り換えて、なんとか飛行機に乗りました。
飛行機は八丈島上空を一旦通過して、大回りして高度を下げて着陸。
レンタカーで出発。
道は良く整備されていて、名物のフェニックス・ロベレニーが並び、青空。
このときまでは。
昼食をとり、八丈支庁におかれた歴史民俗資料館の展示を見てから大里へ。
玉石垣は海で洗われた丸石を積み上げたもので、これで地震でも崩れたりしないそうです。
溶岩が海に流れ込んだ南原千畳岩海岸には、八丈島への公式島流し1号の宇喜多秀家の像があり、城主だった岡山の方角を向いているそうです。
海の向いに見えるのは八丈小島です。
急な岩山で人が住めるようには見えませんが、実は1969年に八丈島本当に集団移住するまでは有人島でした。
ちなみに、Wikipediaにこの島の風土病八丈小島のマレー糸状虫症の記事があり、すさまじい力作、必読です。
1日目は宿で夕食後、樫立向里温泉ふれあいの湯に行ってから寝ました。
なんか、雨が降ってきているんですけど。
翌日は朝から怪しい空模様で、八丈服部屋敷で樫立踊りと島太鼓を見ているうちに、本降りに。
続いて黄八丈の見学。
この黄八丈は草や泥で染める絹織物です。
八丈島の名物で、八丈島で作られるから黄八丈ではなく、黄八丈を作っている島だから八丈島だそうです。
昔ながらの生産方法のせいか、結構良い値段がします。
えこあぐりまーとで地元の餅つきをちらっと見て、八丈島地熱館。
ここは東京電力の地熱発電所に併設されていますが、この地熱発電所はつい最近の3/29に廃止されてしまい、解体を待っている状態だそうです。
八丈島地熱館は八丈島の地学的な説明が詳しく、勉強になりました。
八丈島は東の三原山(大島の山と同じ名前)と、西の八丈富士からなるひょうたん島のような形をしていて、真ん中の平地に人口が集中しています。空港もそこにあります。
この2つの山は時代が随分と異なり、八丈富士は1万年ほどの歴史しかないため、まさに富士山のような整った形をしていて、せいぜい低木しか生えていません。海岸も比較的なだらか。
一方、三原山は10万年以上の歴史があるため、土壌も変化して川が流れるようになっており、地形も浸食が進んでいます。うっそうとした森に覆われています。海岸は断崖絶壁。
裏見ヶ滝は三原山の山麓にあります。
緑に覆われた渓谷のようになっているのですけど、八丈島は火山島なので基本的に淡水魚はいないそうです。
考えてみればそうですが、面白いですね。逆に淡水に魚がいるというのはかなり不思議なことです。
三原山川から平地に降りる登龍峠からは真ん中の平地と八丈富士がよく見えます。
その奥に見えるのは八丈小島。
本当は八丈富士に登りたかったけども、天気が悪いので断念。
結局また夕方に温泉に行く羽目に。この日は中之郷温泉やすらぎの湯。
ちなみに、八丈島滞在中、天気予報はまったく当てになりませんでした。
もともと東京の倍ほどの降水量があるのですが、天気予報にかかわらず雨が降るし、レーダーの画像も当てになりません。
地元の人は、八丈富士に雲がかかると雨が降る、とかそんな感じで暮らしている模様。
夜中は風雨ともに強く、まるで台風通過のようでした。
ただの低気圧なのに。
最終日は午前のみ。
朝から雨が降っているので、朝から末吉温泉見晴らしの湯へ。
風呂場にいたおじいちゃんによると、天気が良いと青ヶ島が見えるそうです。
天気が良ければ。
結局三原山は登れそうにないので、カフェでコーヒーなど飲んだりして時間を過ごしました。
ところで、八丈島の名物と言えばアシタバ。大島でも見る食べ物ですが、八丈島では本当にそこら中に普通に生えています。
車で今度は大阪トンネルからはまた三原山と八丈小島。
何だか帰るときになって天気が良くなってきているように見えるのは気のせいでしょうか。
悔しいので、八丈富士の中腹を一周する鉢巻道路を一周してからレンタカーを返して空港に。
最後にまた島寿司を食べました。
これは醤油漬けにした魚を使い、シャリとの間にはわさびではなくからしが入っています。
わさびが入手できなかったため、このような料理が生まれたようです。
お昼の便で出発。
快晴になっている気がするのですが、気のせいでしょうか。
飛行機から見える八丈富士、登ってみたかったなあ。
今回は東京の島。
東京には伊豆諸島と小笠原諸島があり、今回は伊豆諸島です。
先日行った最大の島伊豆大島に続いて、二番目に大きい八丈島です。
車なら一周して2時間程度。
伊豆大島は水中翼船で東京から日帰りできる距離にあるのに対して、八丈島はずっと南にあり、長崎県や高知県あたりと同じ緯度にあります。
気候も明らかに南国風です。
伊豆大島との違いはそれだけではなく、八丈島まで行くのは流れが速い黒潮を越えなければならないことが大きい。
そのため、船で行くことは時間がかかる上に難しかったという歴史があり、流人が多く送られたのもそのためでもあります。
ところが、現在では伊豆諸島の中で唯一ジェット機が羽田から1日3便就航していて所要時間55分。
交通の便が良い観光地となりました。
羽田を午後出発だったため、ゆっくりと出発するはずが、何と中央線が運転見合わせ。
井の頭線で迂回し、浜松町で1分でモノレールに乗り換えて、なんとか飛行機に乗りました。
飛行機は八丈島上空を一旦通過して、大回りして高度を下げて着陸。
レンタカーで出発。
道は良く整備されていて、名物のフェニックス・ロベレニーが並び、青空。
このときまでは。
昼食をとり、八丈支庁におかれた歴史民俗資料館の展示を見てから大里へ。
玉石垣は海で洗われた丸石を積み上げたもので、これで地震でも崩れたりしないそうです。
溶岩が海に流れ込んだ南原千畳岩海岸には、八丈島への公式島流し1号の宇喜多秀家の像があり、城主だった岡山の方角を向いているそうです。
海の向いに見えるのは八丈小島です。
急な岩山で人が住めるようには見えませんが、実は1969年に八丈島本当に集団移住するまでは有人島でした。
ちなみに、Wikipediaにこの島の風土病八丈小島のマレー糸状虫症の記事があり、すさまじい力作、必読です。
1日目は宿で夕食後、樫立向里温泉ふれあいの湯に行ってから寝ました。
なんか、雨が降ってきているんですけど。
翌日は朝から怪しい空模様で、八丈服部屋敷で樫立踊りと島太鼓を見ているうちに、本降りに。
続いて黄八丈の見学。
この黄八丈は草や泥で染める絹織物です。
八丈島の名物で、八丈島で作られるから黄八丈ではなく、黄八丈を作っている島だから八丈島だそうです。
昔ながらの生産方法のせいか、結構良い値段がします。
えこあぐりまーとで地元の餅つきをちらっと見て、八丈島地熱館。
ここは東京電力の地熱発電所に併設されていますが、この地熱発電所はつい最近の3/29に廃止されてしまい、解体を待っている状態だそうです。
八丈島地熱館は八丈島の地学的な説明が詳しく、勉強になりました。
八丈島は東の三原山(大島の山と同じ名前)と、西の八丈富士からなるひょうたん島のような形をしていて、真ん中の平地に人口が集中しています。空港もそこにあります。
この2つの山は時代が随分と異なり、八丈富士は1万年ほどの歴史しかないため、まさに富士山のような整った形をしていて、せいぜい低木しか生えていません。海岸も比較的なだらか。
一方、三原山は10万年以上の歴史があるため、土壌も変化して川が流れるようになっており、地形も浸食が進んでいます。うっそうとした森に覆われています。海岸は断崖絶壁。
裏見ヶ滝は三原山の山麓にあります。
緑に覆われた渓谷のようになっているのですけど、八丈島は火山島なので基本的に淡水魚はいないそうです。
考えてみればそうですが、面白いですね。逆に淡水に魚がいるというのはかなり不思議なことです。
三原山川から平地に降りる登龍峠からは真ん中の平地と八丈富士がよく見えます。
その奥に見えるのは八丈小島。
本当は八丈富士に登りたかったけども、天気が悪いので断念。
結局また夕方に温泉に行く羽目に。この日は中之郷温泉やすらぎの湯。
ちなみに、八丈島滞在中、天気予報はまったく当てになりませんでした。
もともと東京の倍ほどの降水量があるのですが、天気予報にかかわらず雨が降るし、レーダーの画像も当てになりません。
地元の人は、八丈富士に雲がかかると雨が降る、とかそんな感じで暮らしている模様。
夜中は風雨ともに強く、まるで台風通過のようでした。
ただの低気圧なのに。
最終日は午前のみ。
朝から雨が降っているので、朝から末吉温泉見晴らしの湯へ。
風呂場にいたおじいちゃんによると、天気が良いと青ヶ島が見えるそうです。
天気が良ければ。
結局三原山は登れそうにないので、カフェでコーヒーなど飲んだりして時間を過ごしました。
ところで、八丈島の名物と言えばアシタバ。大島でも見る食べ物ですが、八丈島では本当にそこら中に普通に生えています。
車で今度は大阪トンネルからはまた三原山と八丈小島。
何だか帰るときになって天気が良くなってきているように見えるのは気のせいでしょうか。
悔しいので、八丈富士の中腹を一周する鉢巻道路を一周してからレンタカーを返して空港に。
最後にまた島寿司を食べました。
これは醤油漬けにした魚を使い、シャリとの間にはわさびではなくからしが入っています。
わさびが入手できなかったため、このような料理が生まれたようです。
お昼の便で出発。
快晴になっている気がするのですが、気のせいでしょうか。
飛行機から見える八丈富士、登ってみたかったなあ。
伊豆大島 [旅・出張]
毎年、年度末は仕事が繁忙期なので、さすがに控えていた2月の連休の旅行、今年は決行してしまいました。
もう随分前に沖縄に行った以来でしょうか。
行ったのは伊豆大島。
最近はまっている島の旅の中で、東京都の島は手軽でもあり、注目エリアです。
実は大島は中学生のときにキャンプに行ったことがあり、高校生だったときにも都立高校のセミナーハウスに1年生全員で行ったことがあります。
なので、東京の島の中でどこに行こうかと考えたとき、既に行ったことがある大島は避けようとも思いましたが観光したかというと観光していないし、最後に行った2年後に三原山が噴火して全島避難になった経緯もあり、改めて行ってみようと思いました。
出発したのは土曜日、東京は雪の予報。
ただ、起きる前に降ったのか一部の屋根に雪が残るくらいでした。
浜松町から竹芝桟橋まで歩き、ネット予約したチケットを受け取り、出船票に記入。
コーヒーとおにぎりを買って乗り込み、定刻の13:10を少し過ぎたあたりでジェット船で出船。
大島に近づくと海洋生物が多いということで一時減速。
15:00ごろに到着した岡田港(おかたこう)は雪ならぬ雨。
あんこ娘が1人いて出迎えてくれます。
東京からの船が着く大島の港は元町港と岡田港の2箇所あり、どちらに着くかは当日の朝に決まります。
島内では朝、防災無線か何かで放送され、それでバスのダイヤも変わります。
冬は岡田港が多いようです。
島の中心は明らかに元町で、岡田港の周囲はほとんど施設らしきものがなく、すぐに急な登り道で大島一周道路に接続していますが、真新しい待合ビルがありました。
真新しいと思ったのは正解で、後で知ったところ、2日前にオープンしたばかりでした。
待合所としての役割だけではなく、津波時の避難場所としての機能を持っています。
港からまずはバスで郷土資料館まで。
大島には縄文時代から人が住んでいたようですね。
ただ、火山島で水はけが良く、川らしい川がないため、稲作は難しかったようです。
また、水汲みは重要な仕事で、女性が頭の上にのせて運んでいました。
服装も面白いですね。
かつては葬式の際に(結婚式よりも)目一杯のおしゃれをしたそうです。
バス停で、電線をリスがわたっていました。
これはタイワンリス、もともと島にいなかった動物で、問題になっているようです。
宿泊は元町、いつもの旅行のように寿司などを限界まで食べました。
元町のメインストリート?も夜はひっそりとしています。
この時期、大島は椿祭りシーズンで、元町港の待合ビルでは「夜祭り」というイベントを週末の毎晩やっています。
伝統的なあんこ娘の踊りはまあまあ、スーパーあんこ娘という今風の集団ダンスパフォーマンスは・・・手作り感が有りました・・・。
夜祭り前の会場はこんな感じです。
翌日の日曜日は大島一周。1日だけ借りられたレンタカーで出発。
離島の旅、レンタカーの予約は競争率が高くて大変です。
大島には大島一周道路という名前のそのままの道があり、一周することが出来ます。
今回は反時計回り、カメリアマラソンで一部通行止めの中、火山博物館へ。
さっと見ようと思ったら、結構展示は充実していて、40分の映画まで見て、見たりして時間を使いました。
火山の基本的な説明、世界の火山の説明があります。
当然、1986年の噴火については丁寧に説明されています。
噴火の前から全磁力が低下していたそうです。
全磁力というのは地磁気で、地中の鉄による磁性のようですが、温度が高くなると磁性を失うため、マグマの上昇を示しているそうです。
さらに島を反時計回りに進むと、途中に地層の断面が見える場所があります。
さらに進んで波浮港まで行きました。
この港は、もともと838年の噴火の火口に池が出来、その後の1703年の津波で海とつながり、土木工事で入口を拡張したものだそうです。火山ってすごいですね。
川端康成の伊豆の踊子に出て来る踊り子薫のモデルはここで働いていたという踊り子の里資料館(旧港屋旅館)を見て、坂を登って無人の旧甚の丸邸を見ました。
昼食に寿司を食べてさらに反時計回り。
筆島は、かつての火山の火山道のマグマだけ、固いので浸食されずに残ったものだそうです。
小さな印象ですが、現在の大島を形成した主要な火山の一つでした。
そして、日もやや落ちてきましたが、いよいよ三原山。
外輪山の中のカルデラに降りると内輪山が見え、何筋も溶岩が流れ出した黒い筋が見えます。1986年の噴火のものです。
この溶岩は外輪山を越えなかったものの、外輪山の外で割れ目噴火が起こった結果、元町に危険が迫ったようです。
内輪山までは30分ちょっと、ところどころに避難所があります。
そして内輪山をぐるっと回るお鉢めぐり。ところどころ水蒸気が出ています。
昔は自殺の名所だったそうで、読売新聞社が火口にゴンドラで降りてみるということもあったそうです。
1986年の前の1950-1951年の噴火の前の1933年のことです。
ここで2日目はおしまい。
最後の日は、足がないので朝からバスで大島公園に行って、椿園を見ました。
冷たい雨が降り、休憩するようなレストランもないので、なかなか難儀しました。
椿というのも地味ですが、きれいですね。
ただ、咲いた後、ボタッと下に落ちるので、なかなか無残です。
再びバスで岡田港まで戻り、新しい待合所の2Fで乗りラーメンとコーヒー。
向いの古い待合所で、あら鍋が無料で振る舞われていました。
帰りの船はジェット船が満席だったので大型客船。
出発もあんこ娘が見送ってくれます。
船の出航というのは旅情があります。
遅いと行っても結構なスピードのように感じます。
さすがに退屈ではありますが、5時間ほどで東京へ帰ってきました。
もう随分前に沖縄に行った以来でしょうか。
行ったのは伊豆大島。
最近はまっている島の旅の中で、東京都の島は手軽でもあり、注目エリアです。
実は大島は中学生のときにキャンプに行ったことがあり、高校生だったときにも都立高校のセミナーハウスに1年生全員で行ったことがあります。
なので、東京の島の中でどこに行こうかと考えたとき、既に行ったことがある大島は避けようとも思いましたが観光したかというと観光していないし、最後に行った2年後に三原山が噴火して全島避難になった経緯もあり、改めて行ってみようと思いました。
出発したのは土曜日、東京は雪の予報。
ただ、起きる前に降ったのか一部の屋根に雪が残るくらいでした。
浜松町から竹芝桟橋まで歩き、ネット予約したチケットを受け取り、出船票に記入。
コーヒーとおにぎりを買って乗り込み、定刻の13:10を少し過ぎたあたりでジェット船で出船。
大島に近づくと海洋生物が多いということで一時減速。
15:00ごろに到着した岡田港(おかたこう)は雪ならぬ雨。
あんこ娘が1人いて出迎えてくれます。
東京からの船が着く大島の港は元町港と岡田港の2箇所あり、どちらに着くかは当日の朝に決まります。
島内では朝、防災無線か何かで放送され、それでバスのダイヤも変わります。
冬は岡田港が多いようです。
島の中心は明らかに元町で、岡田港の周囲はほとんど施設らしきものがなく、すぐに急な登り道で大島一周道路に接続していますが、真新しい待合ビルがありました。
真新しいと思ったのは正解で、後で知ったところ、2日前にオープンしたばかりでした。
待合所としての役割だけではなく、津波時の避難場所としての機能を持っています。
港からまずはバスで郷土資料館まで。
大島には縄文時代から人が住んでいたようですね。
ただ、火山島で水はけが良く、川らしい川がないため、稲作は難しかったようです。
また、水汲みは重要な仕事で、女性が頭の上にのせて運んでいました。
服装も面白いですね。
かつては葬式の際に(結婚式よりも)目一杯のおしゃれをしたそうです。
バス停で、電線をリスがわたっていました。
これはタイワンリス、もともと島にいなかった動物で、問題になっているようです。
宿泊は元町、いつもの旅行のように寿司などを限界まで食べました。
元町のメインストリート?も夜はひっそりとしています。
この時期、大島は椿祭りシーズンで、元町港の待合ビルでは「夜祭り」というイベントを週末の毎晩やっています。
伝統的なあんこ娘の踊りはまあまあ、スーパーあんこ娘という今風の集団ダンスパフォーマンスは・・・手作り感が有りました・・・。
夜祭り前の会場はこんな感じです。
翌日の日曜日は大島一周。1日だけ借りられたレンタカーで出発。
離島の旅、レンタカーの予約は競争率が高くて大変です。
大島には大島一周道路という名前のそのままの道があり、一周することが出来ます。
今回は反時計回り、カメリアマラソンで一部通行止めの中、火山博物館へ。
さっと見ようと思ったら、結構展示は充実していて、40分の映画まで見て、見たりして時間を使いました。
火山の基本的な説明、世界の火山の説明があります。
当然、1986年の噴火については丁寧に説明されています。
噴火の前から全磁力が低下していたそうです。
全磁力というのは地磁気で、地中の鉄による磁性のようですが、温度が高くなると磁性を失うため、マグマの上昇を示しているそうです。
さらに島を反時計回りに進むと、途中に地層の断面が見える場所があります。
さらに進んで波浮港まで行きました。
この港は、もともと838年の噴火の火口に池が出来、その後の1703年の津波で海とつながり、土木工事で入口を拡張したものだそうです。火山ってすごいですね。
川端康成の伊豆の踊子に出て来る踊り子薫のモデルはここで働いていたという踊り子の里資料館(旧港屋旅館)を見て、坂を登って無人の旧甚の丸邸を見ました。
昼食に寿司を食べてさらに反時計回り。
筆島は、かつての火山の火山道のマグマだけ、固いので浸食されずに残ったものだそうです。
小さな印象ですが、現在の大島を形成した主要な火山の一つでした。
そして、日もやや落ちてきましたが、いよいよ三原山。
外輪山の中のカルデラに降りると内輪山が見え、何筋も溶岩が流れ出した黒い筋が見えます。1986年の噴火のものです。
この溶岩は外輪山を越えなかったものの、外輪山の外で割れ目噴火が起こった結果、元町に危険が迫ったようです。
内輪山までは30分ちょっと、ところどころに避難所があります。
そして内輪山をぐるっと回るお鉢めぐり。ところどころ水蒸気が出ています。
昔は自殺の名所だったそうで、読売新聞社が火口にゴンドラで降りてみるということもあったそうです。
1986年の前の1950-1951年の噴火の前の1933年のことです。
ここで2日目はおしまい。
最後の日は、足がないので朝からバスで大島公園に行って、椿園を見ました。
冷たい雨が降り、休憩するようなレストランもないので、なかなか難儀しました。
椿というのも地味ですが、きれいですね。
ただ、咲いた後、ボタッと下に落ちるので、なかなか無残です。
再びバスで岡田港まで戻り、新しい待合所の2Fで乗りラーメンとコーヒー。
向いの古い待合所で、あら鍋が無料で振る舞われていました。
帰りの船はジェット船が満席だったので大型客船。
出発もあんこ娘が見送ってくれます。
船の出航というのは旅情があります。
遅いと行っても結構なスピードのように感じます。
さすがに退屈ではありますが、5時間ほどで東京へ帰ってきました。
関門海峡旅行 [旅・出張]
今年最初の旅行は関門海峡旅行でした。
昼頃出発して、山口宇部空港に到着してバスで下関に着いたときには夕方。
寿司を食べてからちょっと歩いてみると、結構古い洋風建築が残っていますね。
あと、土地が狭いのにやたら道が広いのは、どうやら昔の写真を見ると路面電車が走っていたようです。なるほど。
確か和歌山もそんな感じでした。
駅の近くにはグリーンモール商店街があり、一応リトルコリアということになってるものの、閑散としています。
ただ、下関港は韓国との定期船があるので、韓国人は多いです。
街のシンボル的に海峡ゆめタワーがあり、日によって違う色にライトアップされます。
当然展望台があり、当然カップルが多かったです。
夜は豊前田(ぶぜんだ)に出陣。
小さいけれど、結構賑やかな夜の町があります。
翌日はホテルをチェックアウトして、下関市の中でもちょっと離れた長府まで。
ここは長州藩の支藩があったところで、古い街並みが残っています。
ちなみに、長府とは長門国府を略してこの名前になったそうです。
ここは古い街並みが残されており、寺社や長府毛利邸が見所。
曹洞宗の功山寺の仏殿は1320年の創建で、国宝。
古江小路も雰囲気があります。
さて、ここで再び下関の中心、唐戸まで戻って唐戸市場。
市場ですが、まったく観光地となっており、もっと言うと寿司売場になっています。
ここで買って、外で食べるというのがスタイルらしいので、郷に入れば郷に従え。
市場の中の食堂で食事をした直後なのに、ちょっとだけ味見。
奮発して、ノドグロ、ウチワエビ、縁側です。
ウチワエビは、平戸で食べられなかったのをようやく食べられました。
他にもクジラもたくさん出回っています。もちろん河豚も。
亀山八幡宮、日清講和記念館とみて、赤間神宮。
初詣で賑わっていました。
あと、大歳神社、厳島神社などを見て下関観光は一区切りとして、壇ノ浦まで。
みもすそ川公園には、関門橋をバックに、義経と平知盛が。
しかし、関門橋が架かっているこの部分、本当に狭くて、泳いで渡れそうです。
ただ、流れは川のように速いです。
朝方は夥しい釣船がここに出ていました。
そして、船の交通量は多く、橋に引っかかりそうな巨大なタンカーも通過していました。
さて、関門海峡を渡る方法は鉄道2通り、自動車2通り、船、徒歩の6通りあるそうですが、今回はドキュメント72時間でも取り上げられていた徒歩で。
自転車は20円、徒歩は無料。
エレベーターで降りて関門トンネルを歩きます。
自動車道の下を通ることになっているようです。
お約束のように途中で山口県と福岡県の境界。
760mとのことで、たいした時間もなく北九州の門司に上陸。
しかし、外に出ると日が落ちていました。
夜の門司、ライトアップされて、カップルが多いです。
この類いの昔の建物は好きですが、ちょっと整備されすぎているんですよね。
夜は小倉の街へ。
成人式の日だったので、スーツ姿の若者、花魁風の髪型の女性もいました。
さすがに服は着替えていたようです。
もっと早く渡れば見られたかな。
さて、最後の日は北九州市。
なかなか定番の見所がなく悩んで、まずは北九州市立自然史・歴史博物館 いのちのたび博物館。
スペースワールド駅で降りると、スペースワールドの解体工事をしていました。
いのちのたび博物館は噂に違わず充実していました。
下関市民も割引になるようです。
下関市と北九州市って、行き来がスムーズでほぼ都市圏としては一体化している感じです。
街の雰囲気は違いますが。
いのちのたび博物館の展示を見てひらめいて、そのまま若松区へ。
JRの戸畑駅で降り、バスで若戸大橋を渡って若松に到着。
若戸大橋は結構高く、眺めが良いです。
昔は徒歩で渡れたらしいのですが、今は一般道と高速道のみ。
若松区はかつて石炭の積み出し港として栄えました。
洞海湾という深く切れ込んだ川のような湾に面した(上海のバンドならぬ)若松バンドでは、海沿いに洋館が並びます。
この旧古河鉱業若松ビルは現在市の建物として会議室などに使われているようです。
中に入れてもらうことが出来ます。
帰りは若戸大橋ではなく、その下を市営の渡船で。あっという間に着きます。
そのまま戸畑から小倉に戻り、小倉城をさっと遠くから眺め、今度は北九州空港経由で帰りました。
関門海峡周りの狭いエリア、移動も少ないので余裕がある旅のつもりでしたが、どうしてどうして、結構ばたばたでした。
昼頃出発して、山口宇部空港に到着してバスで下関に着いたときには夕方。
寿司を食べてからちょっと歩いてみると、結構古い洋風建築が残っていますね。
あと、土地が狭いのにやたら道が広いのは、どうやら昔の写真を見ると路面電車が走っていたようです。なるほど。
確か和歌山もそんな感じでした。
駅の近くにはグリーンモール商店街があり、一応リトルコリアということになってるものの、閑散としています。
ただ、下関港は韓国との定期船があるので、韓国人は多いです。
街のシンボル的に海峡ゆめタワーがあり、日によって違う色にライトアップされます。
当然展望台があり、当然カップルが多かったです。
夜は豊前田(ぶぜんだ)に出陣。
小さいけれど、結構賑やかな夜の町があります。
翌日はホテルをチェックアウトして、下関市の中でもちょっと離れた長府まで。
ここは長州藩の支藩があったところで、古い街並みが残っています。
ちなみに、長府とは長門国府を略してこの名前になったそうです。
ここは古い街並みが残されており、寺社や長府毛利邸が見所。
曹洞宗の功山寺の仏殿は1320年の創建で、国宝。
古江小路も雰囲気があります。
さて、ここで再び下関の中心、唐戸まで戻って唐戸市場。
市場ですが、まったく観光地となっており、もっと言うと寿司売場になっています。
ここで買って、外で食べるというのがスタイルらしいので、郷に入れば郷に従え。
市場の中の食堂で食事をした直後なのに、ちょっとだけ味見。
奮発して、ノドグロ、ウチワエビ、縁側です。
ウチワエビは、平戸で食べられなかったのをようやく食べられました。
他にもクジラもたくさん出回っています。もちろん河豚も。
亀山八幡宮、日清講和記念館とみて、赤間神宮。
初詣で賑わっていました。
あと、大歳神社、厳島神社などを見て下関観光は一区切りとして、壇ノ浦まで。
みもすそ川公園には、関門橋をバックに、義経と平知盛が。
しかし、関門橋が架かっているこの部分、本当に狭くて、泳いで渡れそうです。
ただ、流れは川のように速いです。
朝方は夥しい釣船がここに出ていました。
そして、船の交通量は多く、橋に引っかかりそうな巨大なタンカーも通過していました。
さて、関門海峡を渡る方法は鉄道2通り、自動車2通り、船、徒歩の6通りあるそうですが、今回はドキュメント72時間でも取り上げられていた徒歩で。
自転車は20円、徒歩は無料。
エレベーターで降りて関門トンネルを歩きます。
自動車道の下を通ることになっているようです。
お約束のように途中で山口県と福岡県の境界。
760mとのことで、たいした時間もなく北九州の門司に上陸。
しかし、外に出ると日が落ちていました。
夜の門司、ライトアップされて、カップルが多いです。
この類いの昔の建物は好きですが、ちょっと整備されすぎているんですよね。
夜は小倉の街へ。
成人式の日だったので、スーツ姿の若者、花魁風の髪型の女性もいました。
さすがに服は着替えていたようです。
もっと早く渡れば見られたかな。
さて、最後の日は北九州市。
なかなか定番の見所がなく悩んで、まずは北九州市立自然史・歴史博物館 いのちのたび博物館。
スペースワールド駅で降りると、スペースワールドの解体工事をしていました。
いのちのたび博物館は噂に違わず充実していました。
下関市民も割引になるようです。
下関市と北九州市って、行き来がスムーズでほぼ都市圏としては一体化している感じです。
街の雰囲気は違いますが。
いのちのたび博物館の展示を見てひらめいて、そのまま若松区へ。
JRの戸畑駅で降り、バスで若戸大橋を渡って若松に到着。
若戸大橋は結構高く、眺めが良いです。
昔は徒歩で渡れたらしいのですが、今は一般道と高速道のみ。
若松区はかつて石炭の積み出し港として栄えました。
洞海湾という深く切れ込んだ川のような湾に面した(上海のバンドならぬ)若松バンドでは、海沿いに洋館が並びます。
この旧古河鉱業若松ビルは現在市の建物として会議室などに使われているようです。
中に入れてもらうことが出来ます。
帰りは若戸大橋ではなく、その下を市営の渡船で。あっという間に着きます。
そのまま戸畑から小倉に戻り、小倉城をさっと遠くから眺め、今度は北九州空港経由で帰りました。
関門海峡周りの狭いエリア、移動も少ないので余裕がある旅のつもりでしたが、どうしてどうして、結構ばたばたでした。
佐原 [旅・出張]
近所の重伝建として、川越に続いて、千葉県の佐原に行ってきました。
成田空港の近く、と言うことで、近いような、遠いような。
うなぎを食べてから、街歩き。
利根川の支流の小野川沿いに街並みが拡がっていて、小野川で小江戸舟めぐりが出来ます。
伊能忠敬が人生の前半を過ごして財をなした土地ということで、記念館もありました。
川沿いは電柱も地中化されて、美しい街並みですが、昔のまま残っているだけではなく、少しずつ新しい無粋な建物を建て直して行っているようですね。
屋根は切妻でも平入りと妻入りが混じっていて、寄棟もあります。
蔵も目立ちます。
寄棟の場合、鬼瓦に相当する部分が凝っていて、字や模様で装飾されています。
重伝建は川沿い意外にも拡がっていますが、電柱が残っていて、ちょっと残念。
真っ暗になる前に香取神宮を見て帰りました。
肝心の千葉県立中央博物館大利根分館が冬は個人が見られないということで残念でしたが、この地が繁栄したのは、物流。
東回り航路においては、直接東京湾に入るルートもあったものの、犬吠埼が難所であるため、銚子まで南下した後は利根川に入り、江戸川に入って江戸に到る経路が重要でした。
なので、その経路にある佐原が発展した、ということのようです。
成田空港の近く、と言うことで、近いような、遠いような。
うなぎを食べてから、街歩き。
利根川の支流の小野川沿いに街並みが拡がっていて、小野川で小江戸舟めぐりが出来ます。
伊能忠敬が人生の前半を過ごして財をなした土地ということで、記念館もありました。
川沿いは電柱も地中化されて、美しい街並みですが、昔のまま残っているだけではなく、少しずつ新しい無粋な建物を建て直して行っているようですね。
屋根は切妻でも平入りと妻入りが混じっていて、寄棟もあります。
蔵も目立ちます。
寄棟の場合、鬼瓦に相当する部分が凝っていて、字や模様で装飾されています。
重伝建は川沿い意外にも拡がっていますが、電柱が残っていて、ちょっと残念。
真っ暗になる前に香取神宮を見て帰りました。
肝心の千葉県立中央博物館大利根分館が冬は個人が見られないということで残念でしたが、この地が繁栄したのは、物流。
東回り航路においては、直接東京湾に入るルートもあったものの、犬吠埼が難所であるため、銚子まで南下した後は利根川に入り、江戸川に入って江戸に到る経路が重要でした。
なので、その経路にある佐原が発展した、ということのようです。
奄美大島旅行 [旅・出張]
11月の三連休は奄美大島に行ってきました。
祝日の金曜日に、少々家事を済ませてから羽田空港に行き、まずは鹿児島空港へ。
羽田空港の出発遅れに加えて向かい風で飛行機が遅れたので、鹿児島空港では20分で乗り換えて、奄美大島の空港へ。
午前中に家を出たのに、着いたのは夕方。
奄美空港は、島の北端と言って良いところにあり、日の入りは東京よりずっと遅いものの、
空港近くの奄美パークなどを見て、島の中心部の名瀬のホテルにチェックインしたときは真っ暗でした。
さて、奄美大島。
北方領土を除くと沖縄島、佐渡島に次いで7番目に大きな島で、8番目の対馬より大きい。
また、佐渡島は人口6万人を割っているのに対して、奄美大島は11万人ほど住んでいます。
対馬もそうですが、山がち。
そのため、各々の集落(シマと呼ぶらしい)の間の陸路は不便で海路が中心で、結果的に各々の異なった文化が発展したとのこと。
現在はトンネルが掘りまくられていて、ちょっと隣町に行くにもすぐトンネル。
でも、このトンネルのおかげで最近は島内の時間距離が随分縮んでいるらしい。
ちなみに、奄美大島は南北というより東西に長いように思うのに、なぜか南部、北部という言い方をします。
夕食は名瀬の屋仁川(やんご)通りで。
ここは、鹿児島県内では天文館に次ぐ規模で、昔は300軒、今でも200軒の店が並んでいるそう。
ただし、店は住宅に混じって並んでいるし、客引きもいないのでのんびりしています。
ここで名物、黒糖焼酎デビュー。
ラム酒と焼酎のあいのこみたいで、甘くて美味しいですね。
鮪は多くある食材で、奄美でエラブチと呼ぶ、ブダイも美味しい。
翌日は朝からマングローブでカヌー。
ブラタモリでもやっていたやつですね。
簡単な漕ぎ方を教わってから一人用に乗りましたが、結構安定していて、あっさり乗れました。
流れがあっても、思いのほか自由に動けるし、視線が水面に近いので、これは楽しい!
この時間は干潮だったそうで、干潟に上陸すると、小さな蟹が穴から出入りしていて、小さなトビハゼがぴょんぴょんと飛び跳ねていました。
うっそうとしたマングローブの中を進む、というのは満潮のときだそうです。
昼食後、一気に島の南部まで走り、山の中でマテリヤの滝。
遊歩道があって、歩けるのに誰もおらず、神秘的でした。
ハブが出ないかなあ、とちょっと心配ではありましたが。
夕暮れ時は、高知山展望台へ。
奄美大島の南部にはすぐに向かい合って、加計呂麻島があり、その間の大島海峡が臨めます。
ここもブラタモリで映ったところみたいですね。
入り組んだ奄美大島には、荒い波の海、静かな波の海があり、大島海峡は至って穏やか。
対岸の加計呂麻島、のんびりしたところで、夜はとてもきれいに星が見えるそうです。
そして最後の日は、ホテルをチェックアウトし、まずは名瀬市内の奄美市立奄美博物館。
奄美の歴史、文化、自然の展示があります。
奄美の歴史はもちろん本土と異なっていますが、特に古代は沖縄と同様、本土とは独立して歩んできたと考えられてきました。
しかし、展示によれば、喜界島に城久遺跡が見つかったことにより、奄美諸島は大和朝廷と古くから交流があったのではないか、と考えられてきているそうです。
奄美大島の小湊フワガネク遺跡では大量の夜光貝が見つかり、これは加工して本土に輸出されていた可能性があります。
平泉の中尊寺金色堂の螺鈿は、奄美の夜光貝を使っている可能性があるそうです。
屋外には、奄美の民家の展示がありました。
最後は再び南部に行って、ホノホシ海岸。
ここは荒波に洗われて丸い石ばかりで、引き波のときにがらがらと音を立てる。写真を撮っている人も多かった。
この丸い石、地元の人は持って帰ると災いがあると信じているそうです。
ここで旅は終了、一路北部の奄美空港へ。
途中の龍郷町で、奄美名物の鶏版をさっと食べて、奄美歴史民俗資料館をさっと見て、空港に滑り込み。
鹿児島空港を経由して帰ってきました。
今年は、マルタ、キューバ、佐渡島、そして奄美大島と島が続きました。
遠くて時間がかかるし、お金もかかりますが、島の旅、はまってしまいそうです。
祝日の金曜日に、少々家事を済ませてから羽田空港に行き、まずは鹿児島空港へ。
羽田空港の出発遅れに加えて向かい風で飛行機が遅れたので、鹿児島空港では20分で乗り換えて、奄美大島の空港へ。
午前中に家を出たのに、着いたのは夕方。
奄美空港は、島の北端と言って良いところにあり、日の入りは東京よりずっと遅いものの、
空港近くの奄美パークなどを見て、島の中心部の名瀬のホテルにチェックインしたときは真っ暗でした。
さて、奄美大島。
北方領土を除くと沖縄島、佐渡島に次いで7番目に大きな島で、8番目の対馬より大きい。
また、佐渡島は人口6万人を割っているのに対して、奄美大島は11万人ほど住んでいます。
対馬もそうですが、山がち。
そのため、各々の集落(シマと呼ぶらしい)の間の陸路は不便で海路が中心で、結果的に各々の異なった文化が発展したとのこと。
現在はトンネルが掘りまくられていて、ちょっと隣町に行くにもすぐトンネル。
でも、このトンネルのおかげで最近は島内の時間距離が随分縮んでいるらしい。
ちなみに、奄美大島は南北というより東西に長いように思うのに、なぜか南部、北部という言い方をします。
夕食は名瀬の屋仁川(やんご)通りで。
ここは、鹿児島県内では天文館に次ぐ規模で、昔は300軒、今でも200軒の店が並んでいるそう。
ただし、店は住宅に混じって並んでいるし、客引きもいないのでのんびりしています。
ここで名物、黒糖焼酎デビュー。
ラム酒と焼酎のあいのこみたいで、甘くて美味しいですね。
鮪は多くある食材で、奄美でエラブチと呼ぶ、ブダイも美味しい。
翌日は朝からマングローブでカヌー。
ブラタモリでもやっていたやつですね。
簡単な漕ぎ方を教わってから一人用に乗りましたが、結構安定していて、あっさり乗れました。
流れがあっても、思いのほか自由に動けるし、視線が水面に近いので、これは楽しい!
この時間は干潮だったそうで、干潟に上陸すると、小さな蟹が穴から出入りしていて、小さなトビハゼがぴょんぴょんと飛び跳ねていました。
うっそうとしたマングローブの中を進む、というのは満潮のときだそうです。
昼食後、一気に島の南部まで走り、山の中でマテリヤの滝。
遊歩道があって、歩けるのに誰もおらず、神秘的でした。
ハブが出ないかなあ、とちょっと心配ではありましたが。
夕暮れ時は、高知山展望台へ。
奄美大島の南部にはすぐに向かい合って、加計呂麻島があり、その間の大島海峡が臨めます。
ここもブラタモリで映ったところみたいですね。
入り組んだ奄美大島には、荒い波の海、静かな波の海があり、大島海峡は至って穏やか。
対岸の加計呂麻島、のんびりしたところで、夜はとてもきれいに星が見えるそうです。
そして最後の日は、ホテルをチェックアウトし、まずは名瀬市内の奄美市立奄美博物館。
奄美の歴史、文化、自然の展示があります。
奄美の歴史はもちろん本土と異なっていますが、特に古代は沖縄と同様、本土とは独立して歩んできたと考えられてきました。
しかし、展示によれば、喜界島に城久遺跡が見つかったことにより、奄美諸島は大和朝廷と古くから交流があったのではないか、と考えられてきているそうです。
奄美大島の小湊フワガネク遺跡では大量の夜光貝が見つかり、これは加工して本土に輸出されていた可能性があります。
平泉の中尊寺金色堂の螺鈿は、奄美の夜光貝を使っている可能性があるそうです。
屋外には、奄美の民家の展示がありました。
最後は再び南部に行って、ホノホシ海岸。
ここは荒波に洗われて丸い石ばかりで、引き波のときにがらがらと音を立てる。写真を撮っている人も多かった。
この丸い石、地元の人は持って帰ると災いがあると信じているそうです。
ここで旅は終了、一路北部の奄美空港へ。
途中の龍郷町で、奄美名物の鶏版をさっと食べて、奄美歴史民俗資料館をさっと見て、空港に滑り込み。
鹿児島空港を経由して帰ってきました。
今年は、マルタ、キューバ、佐渡島、そして奄美大島と島が続きました。
遠くて時間がかかるし、お金もかかりますが、島の旅、はまってしまいそうです。
佐渡島旅行 [旅・出張]
国内もいろいろ行って、ここ最近は半島や島への旅行が増えてきています。
10月の連休は佐渡島へ。
島の旅行はやはり時間がかかるので、初日はいつもより早起きして新幹線で新潟へ、新潟からジェットフォイルで両津港へ。
台風が日本海側を通過予定でどうなるかと思っていましたが、無事に佐渡島に上陸できました。
初日はバスで佐渡歴史伝説館、佐渡博物館を回っておしまい。
泊まったホテルの周り、夜は何もありませんでした。
2日目、台風の通過によって、未明に強い風が吹いたようで、朝方はまだ雨がぱらついていました。
船も午前中は欠航していたようで、まさに孤島状態。
この日はレンタカーを借りて、本格的に観光しました。
本当は三日間車を借りようと思っていたのですが、なんとどの会社も満車。
台風のせいでキャンセルが出たのか、直前に見たらこの1日だけ借りられました。
まずは西三川ゴールドパークへ。
佐渡は金山が有名ですが、金が出るところはいくつかあり、この西三川は砂金がとれたところ。
昔、買い付けた野菜の土に砂金が着いているのに気付いた男が畑を買った話など、面白い話があります。
最後に砂金とりの体験コーナーがあります。
本物の川砂が用意されているそうで、これを水の中で揺すって軽い砂を減らしていきます。
見せてくれたお手本のようにはとても行きませんが、いくつかとれて記念品に。
さらに佐渡島南西の小木半島に向かいます。
途中で真言宗の蓮華峰寺を見ましたが、他に誰もいませんでした。
矢島・経島も誰もいませんでした。
船が欠航しているせいで、近隣からの観光客がいないせいかも。
そしていよいよハイライトの宿根木へ。
ここは重要伝統的建造物保存地区になっている集落です。
宿根木の入口の佐渡国小木民俗博物館・千石船展示館へ。
千石船展示館の名の通り、巨大な千石船を船大工たちによって復元し、なんと中にも入ることが出来ます。
隣接している学校を改良した博物館も古い生活用具を並べていて、雰囲気がありました。
そしていよいよ宿根木の集落へ。
入江にある川の河口の狭い範囲に家が密集して、周囲は段丘上に高低差があるため、山道のような階段を降りていきます。
すると、突然タイムスリップしたような町が現れます。
もちろん、生活している人がいるわけですが、いくつかの家屋は公開されており、三角屋、清九郎、金子屋を順番に見ました。
三角屋は違う地区で建てられた四角い家を移築したというもの。
おばあちゃんが長く住んでいましたが、高齢になって転居したため後悔されるようになりました。
もともと四角かった家を、三角にしてここに移築したと言うことで、内部はなんとも不思議な作りです。
清九郎は豪勢な家で、簡単に説明してくれました。
入ると囲炉裏がある間があり、吹き抜け。
寝る場所はちょっと高くなっていて、鼠返しがある。
白川郷の家とちょっと似た配置。
けやきの一枚板、一本の柱など贅沢で、釘隠しまであった。
窓の開け閉めは滑車で出来て、このあたりは船の技術でしょうか。
石で押さえた石置木羽葺屋根と呼ばれる屋根です。
向かいの蔵は板で囲われており、能登の黒島の鞘蔵と同じ。
金子屋も同じような配置でした。
全般的に外見は古びた木で質素ですが、中は豪勢。
外観の木材なども含めて、船で使われた丈夫なものを再利用しているそうです。
また、集落内を流れる川にかかった石は尾道のものだったりするそうです。
最後に井戸の横を登って段丘の上から見ると、街を一望できます。
一段下がった狭い地域に住宅が密集していることがわかります。
昼食を摂って宿根木を発ち、ここから大きく北部の相川まで移動して、佐渡奉行所。
これは復元されたもので、バスで来ていたツアー客と一緒にガイドを受けました。
このあたりと金山の間には今こそ車道が走っていますが、並行して当時の街並みが京町として残っています。
時間が無いので、ほんの一瞬だけ見て、自分の影と一緒に写真を撮りました。
そして、北ルートとは別に、佐渡金山の横を通って大佐渡スカイラインで両津に戻りました。
紅葉にはちょっと早い。
夕暮れの展望を楽しみにしていたのに、一番上はガスが出ていて、結局いつもの展望に・・・。
雨男過ぎる。
両津の夷町(えびすちょう)に出て、三軒はしごして、この日はおしまい。
最終日は、二日酔いで1時間近く起きられませんでした。
この日はバスで佐渡金山へ。
今では坑道も人形がおかれてすっかり観光地でした。
初期の露天掘りの跡が、道遊の割戸として残っています。
佐渡金山って、平成元年まで掘っていたんですね。
江戸時代は、それはそれは労働集約的な方法で鉱石から金の純度を高めていって小判にしていました。
金山とは言うもののの、その何倍も銀が採れるので、まずは金銀を鉛の合金として取り出し、さらに銀と金を分離します。
地盤が固い佐渡金山ではタガネも1-2日でだめになってしまったそうで、採掘には道具を作る技術が必要とされますし、土木技術や排水技術も必要です。
結果として多くの技術がこの地に集まっていて、棚田が作られた技術のベースにもなっているそうです。
バスを乗り換えて両津港に戻り、ジェットフォイルで新潟へ。
新幹線で東京に戻りました。
12時過ぎに金山を出たのに、家を着いたのは19時頃でした。
10月の連休は佐渡島へ。
島の旅行はやはり時間がかかるので、初日はいつもより早起きして新幹線で新潟へ、新潟からジェットフォイルで両津港へ。
台風が日本海側を通過予定でどうなるかと思っていましたが、無事に佐渡島に上陸できました。
初日はバスで佐渡歴史伝説館、佐渡博物館を回っておしまい。
泊まったホテルの周り、夜は何もありませんでした。
2日目、台風の通過によって、未明に強い風が吹いたようで、朝方はまだ雨がぱらついていました。
船も午前中は欠航していたようで、まさに孤島状態。
この日はレンタカーを借りて、本格的に観光しました。
本当は三日間車を借りようと思っていたのですが、なんとどの会社も満車。
台風のせいでキャンセルが出たのか、直前に見たらこの1日だけ借りられました。
まずは西三川ゴールドパークへ。
佐渡は金山が有名ですが、金が出るところはいくつかあり、この西三川は砂金がとれたところ。
昔、買い付けた野菜の土に砂金が着いているのに気付いた男が畑を買った話など、面白い話があります。
最後に砂金とりの体験コーナーがあります。
本物の川砂が用意されているそうで、これを水の中で揺すって軽い砂を減らしていきます。
見せてくれたお手本のようにはとても行きませんが、いくつかとれて記念品に。
さらに佐渡島南西の小木半島に向かいます。
途中で真言宗の蓮華峰寺を見ましたが、他に誰もいませんでした。
矢島・経島も誰もいませんでした。
船が欠航しているせいで、近隣からの観光客がいないせいかも。
そしていよいよハイライトの宿根木へ。
ここは重要伝統的建造物保存地区になっている集落です。
宿根木の入口の佐渡国小木民俗博物館・千石船展示館へ。
千石船展示館の名の通り、巨大な千石船を船大工たちによって復元し、なんと中にも入ることが出来ます。
隣接している学校を改良した博物館も古い生活用具を並べていて、雰囲気がありました。
そしていよいよ宿根木の集落へ。
入江にある川の河口の狭い範囲に家が密集して、周囲は段丘上に高低差があるため、山道のような階段を降りていきます。
すると、突然タイムスリップしたような町が現れます。
もちろん、生活している人がいるわけですが、いくつかの家屋は公開されており、三角屋、清九郎、金子屋を順番に見ました。
三角屋は違う地区で建てられた四角い家を移築したというもの。
おばあちゃんが長く住んでいましたが、高齢になって転居したため後悔されるようになりました。
もともと四角かった家を、三角にしてここに移築したと言うことで、内部はなんとも不思議な作りです。
清九郎は豪勢な家で、簡単に説明してくれました。
入ると囲炉裏がある間があり、吹き抜け。
寝る場所はちょっと高くなっていて、鼠返しがある。
白川郷の家とちょっと似た配置。
けやきの一枚板、一本の柱など贅沢で、釘隠しまであった。
窓の開け閉めは滑車で出来て、このあたりは船の技術でしょうか。
石で押さえた石置木羽葺屋根と呼ばれる屋根です。
向かいの蔵は板で囲われており、能登の黒島の鞘蔵と同じ。
金子屋も同じような配置でした。
全般的に外見は古びた木で質素ですが、中は豪勢。
外観の木材なども含めて、船で使われた丈夫なものを再利用しているそうです。
また、集落内を流れる川にかかった石は尾道のものだったりするそうです。
最後に井戸の横を登って段丘の上から見ると、街を一望できます。
一段下がった狭い地域に住宅が密集していることがわかります。
昼食を摂って宿根木を発ち、ここから大きく北部の相川まで移動して、佐渡奉行所。
これは復元されたもので、バスで来ていたツアー客と一緒にガイドを受けました。
このあたりと金山の間には今こそ車道が走っていますが、並行して当時の街並みが京町として残っています。
時間が無いので、ほんの一瞬だけ見て、自分の影と一緒に写真を撮りました。
そして、北ルートとは別に、佐渡金山の横を通って大佐渡スカイラインで両津に戻りました。
紅葉にはちょっと早い。
夕暮れの展望を楽しみにしていたのに、一番上はガスが出ていて、結局いつもの展望に・・・。
雨男過ぎる。
両津の夷町(えびすちょう)に出て、三軒はしごして、この日はおしまい。
最終日は、二日酔いで1時間近く起きられませんでした。
この日はバスで佐渡金山へ。
今では坑道も人形がおかれてすっかり観光地でした。
初期の露天掘りの跡が、道遊の割戸として残っています。
佐渡金山って、平成元年まで掘っていたんですね。
江戸時代は、それはそれは労働集約的な方法で鉱石から金の純度を高めていって小判にしていました。
金山とは言うもののの、その何倍も銀が採れるので、まずは金銀を鉛の合金として取り出し、さらに銀と金を分離します。
地盤が固い佐渡金山ではタガネも1-2日でだめになってしまったそうで、採掘には道具を作る技術が必要とされますし、土木技術や排水技術も必要です。
結果として多くの技術がこの地に集まっていて、棚田が作られた技術のベースにもなっているそうです。
バスを乗り換えて両津港に戻り、ジェットフォイルで新潟へ。
新幹線で東京に戻りました。
12時過ぎに金山を出たのに、家を着いたのは19時頃でした。